2013年4月12日金曜日

ビデオゲームの多様性:フェミニズム、LGBT、インディーゲーム

前回に引き続き、今年のGDCを振り返ってみよう。

『The Walking Dead』(2012)や『極限脱出ADV 善人シボウデス』(2012)といった作品がGDCアワードで注目されたように、昨今ではアドベンチャー・ゲームというジャンルが再評価されている。そして、アドベンチャーの再評価と連動して、ビデオゲームにおける「ナラティブ」や「ストーリー」という問題が再検討されている。

「ルドロジー vs. ナラトロジー」といえば、これまでゲーム・スタディーズの中で幾度と無く議論されてきた問題だ。現在ではそのようなゲームにおける本質を問う議論は、どちらかと言えば鳴りを潜め、むしろ「ビデオゲームは何を語れるか」という関心に重きが置かれている感が強い。

実際、GDCでも「Game Narrative Summit」が開かれ、このテーマに強い関心を持つ人々が集まった。古くて新しいこのテーマだが、今回は「多様性」という観点からフェミニズムやLGBTの問題について考えてみよう。そして、この論点においてインディーゲームが果たす役割の大きさを最後に触れておきたい。

フェミニズムと多様性

フェミニズム――性差別の排除と女性の権利の拡張――は現代の我々の文明と社会にとって未だに重要な課題だ。文学、絵画、映画、マンガなどこれまであらゆる表現の様式に、フェミニズム的観点を取り入れる運動があった。比較的新しい表現であるビデオゲームにもその動きは少なからず存在するが、残念なことに日本ではほとんどまじめに論じられてはいない。

今回のGDCのGame Narrative Summitでも、クリエイティビティとビジネスの観点から、ゲーム業界は「女性」をもっと大切に扱うべきであるという講演が行われた。マイクロソフトのTom Abernathy氏によって行われたこの講演は、その主眼をビジネスに置いているとはいえ、我々が真剣に取り組むべき課題を言い当てている。(講演についてはこちらを参照:「【GDC 2013 Vol.71】ゲームの「クリエイティブ」と「ビジネス」に決定的に大事なのは"多様性"だ」。)

インターネット上のゲームの広告などを見るたびにうんざりすることの一つに、その性差別的/性的な表現があげられる。特に昨今ではモバイル・プラットフォームにおける性的表現は過激さを増しており、アイコン、バナー、キャッチコピーを問わず、露骨に(ほとんどは男性の)性的関心を煽っている。そのようなプロモーションによって確かに得るべき利益はあるだろう。だがビジネスとして見た場合でも、大半の女性ユーザーを切り捨てている。さらにゲームに単なる金銭的な価値以上を求めるものにとっても、そのような男性中心的なマーケットが持つ問題については真剣に考えていくべきだ。

また奥谷海人氏によれば、GDCで行われたIGDA公式パーティにおいて、「あまりにもセクシー過ぎる女性の衣装やダンサーの踊り方」に対して非難が向けられ、IGDAの「Women in Games」の理事を務めるBrenda Romero氏が抗議のために辞職したという。国際ゲーム開発者協会であるIGDAは、昨今のテーマを「多様性」と定めているため、このような過度に男性向けの催しに非難があつまるのは当然のことだと思う。日本のゲーム業界においても、しばしば、「ゲーム業界は男のものだ」というような誤った前提から、不要に露出が高いコンパニオンが登場する機会は多い。

このような現象は、従来のゲーム業界やユーザーが男性中心であることの証左であり、今後は真剣に検討していく必要がある。私は何も性的な表現を規制すべきだとは思わないが、男性と女性が対等に扱われるべき公の場において、そのような表現がなんら隔離されることなく行われることに対しては批判的である。実際、性的なコンテンツは魅力的なものである。だが、人を不快にさせることもあるということは忘れてはいけない。

LGBTに対するEAの取り組み

昨今では、単なる女性の権利の拡張としてフェミニズムだけではなく、性的マイノリティへの差別を是正する動きは、「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)というある程度のまとまりを持って論じられる。ゲームに関しても同様で、他の差別問題と同様、性的マイノリティについて今後は考えていく必要がある。

『シムシティ』(2013)でのサーバートラブル、モバイルゲームにおけるマイクロトランザクション(少額課金)の強化、バグの多さやサポートの不備など、様々な形で批判されることが多い巨大企業のエレクトロニック・アーツ(EA)。前回のコラムでも触れたとおり、昨今のインターネット上でのEAバッシングはいささか行き過ぎたものだ。しかし、少なくともLGBTなどの性的マイノリティへの配慮という点に関しては、EAは先進的な企業だと言える。

有名な事例としては『Mass Effect3』(2012)における同性愛描写をめぐる問題である。SFの世界では、古くから文明間の違いやジェンダー・ロールをテーマにしたものは多い。Mass Effectシリーズにおいても、当初から主人公であるシェパード少佐の性別をプレイヤーは男性女性から選択でき、続編では女性の同性愛イベントが存在した。さらに『Mass Effect3』では、シェパード少佐の性別に関わらず、同性間のロマンスが選択可能になった。

もちろん、これらはデベロッパーであるBioWareが熱心に取り組んできたことである。同社のシナリオライターでありゲームデザイナーであるDavid Gadier氏は、今年のGDCにおいて、ゲーム業界はセックスやジェンダーといった問題を真剣に取り組み、女性や性的マイノリティに不快感を与えるべきではないという内容の講演を行なっている。Gaider氏もユーザーの嗜好やビジネス的な理由から、これらの提言を行なっているが、実際に単なる金銭的な問題ではない。ビデオゲームが「感情を表現するメディア」であるとするならば、女性は当然、性的マイノリティに向けた表現も認められるべきである。

ご存知の方は多いかもしれないが、『Mass Effect3』における同性愛描写は物議をかもし、数千通以上の抗議のメールがパブリッシャーであるEAに届いたという。だが、EAはこれらのゲイバッシング的な抗議に屈することなく、本作のLGBT要素を検閲することはないと、BioWareの方針を擁護している。

もちろん、このような抗議の中には「ポリティカル・コレクトネス」におもねる大企業が、ステレオタイプ的なゲイ表現(いわゆるToken gay guy)を挿入することへの違和感もあったであろう。しかしながら、RPGという表現において、プレイヤーがキャラクターに自分のアイデンティティを重ねることが自然である以上、レズビアンやゲイのロマンスが描かれない理由などない。そういった表現に拒否感があるプレイヤーは単に自身のヘテロのセクシャリティに無自覚なだけであるのだ。

さらに言えば、EAは今年の3月にゲームにおけるLGBTについて考えるカンファレンスを開催している。「Hate Is Not A Game」が合言葉である本イベントでは、ゲームシナリオやキャラクターにおける「正統な」LGBTのあり方や、ゲーム業界に従事するLGBT、ビデオゲームにおけるホモフォビアの起源といったことが討論される予定だったそうだ。これらの姿勢から鑑みるに、EAのLGBTに対する試みは単なるポーズにとどまらないものだと言える。

インディーゲームの果たす役割

最後に、これらの女性や性的マイノリティへの関わりという点で、インディーゲームが果たす役割について触れておこう。

産業としてのゲームがヘテロ男性向けの表現を行なってきたからといって、何もデベロッパーやパブリッシャーがマチズモに完全に侵されているわけではない(もちろん、そういった人も存在するだろうが)。基本的には市場の動向に合わせいった結果、そのような表現が大半を占めているのだ。逆に言えば、女性のためのゲーム、LGBTのためのゲームといった市場が存在すれば、彼女たちの嗜好にあった表現ももっと多く生まれるだろう。

実際に、インディーゲームの中には女性やLGBTをテーマにした作品は多い。大規模なAAAタイトルなどと異なり、ニッチな市場で立ち回れるインディーゲームにとって、そのようなテーマはより扱いやすいのである。

中でもAuntie Pixelanteの『Dys4ia』(2012)は、注目に値する作品である。作者であるAnna Anthropy氏は、本作でトランスジェンダーである自身の経験に基づいた「自伝的ゲーム」に挑戦した。ジェンダーの揺らぎやホルモン治療をミニゲームで表現しており、プレイヤーはAnthropy氏のパーソナルな感情をゲームによって体感することになる。本作はIndieGames The WeblogにおいてTop 10 Indie Games Of 2012 (+2!) に選出されるなど、昨今、注目を集めている。(無料のフラッシュゲームであるため、こちらで実際にプレイできる。)

ゲームプレイという観点からは特別に優れた作品ではない。また、彼女自身も本作が万人向けのゲームだとは考えないだろう。だが、むしろ彼女が求めているのは、ゲームというメディアが持つ広大な可能性と多様性の方だ。

デベロッパーであるとともにゲーム批評家でもある彼女は昨年、著作『Rise of The Videogame Zinesters』を上梓した。その中で彼女は、「他の人の人生を経験してみる」という点において、ゲームほど直接的なメディアはないと主張する。そして、本のサブタイトルにある通り、21世紀はあらゆる人がゲームというメディアで表現することが可能な時代であると述べる。

Anthropy氏の主張はラジカルなように思われるかもしれないが、その実、非常に素朴なものだ。レズビアンが恋人に断酒を説得するゲームがやりたくてもなかったから、自ら作ったというエピソードが示すように、彼女の主張はピュアなDIY精神から導き出されている。

テクノロジーの発展により現代では、「Zinesters」のように――自主制作、自主流通の雑誌である「Zine」を作ったり、流通させたりする人々のように、誰でもビデオゲームを制作が可能になりつつある。それは自分のためだけのゲームであっても良いし、友人に向けたものだけでも構わない。ビデオゲームはそういった表現も受け入れることが可能なメディアであるはずだ、というのが彼女の言わんとすることだ。

私はもともとパンク・ロックやインディー・ロックを愛好する人間だけに、彼女の言葉には素直に心打たれた。巨大なエンターテイメント産業としてのビデオゲームが今後も存続する一方で、ニッチな市場やパーソナルな表現としてのビデオゲームはますます増えていくだろう。そして、女性やLGBTを重視した表現は、そういったインディペンデントでパーソナルなビデオゲームから生まれてくるはずだ。今年のGDCで話題になった「ビデオゲームの多様性」とは、インディーの精神によってもっとも強く後押しされるものだろう。