2013年4月30日火曜日

電王戦に見る文化としてのゲームのあり方

先週の4月20日、「ついに人類がコンピュータに敗北したのか!」というセンセーショナルな話題が注目を集めた。映画の『ターミネーター』などの話ではない。知っている人も多いだろうが、将棋のプロ棋士とコンピュータが対決する「第2回電王戦」の話だ。

2011年1月14日に行われた第1回において、既に米長邦雄永世棋聖が「ボンクラーズ」というソフトに敗北を喫している。だが、今回は現役のプロ棋士と将棋ソフトによる団体戦が行われ、コンピュータ側が3勝1敗1引き分けという勝利を勝ち取り、いよいよ将棋の世界においてコンピュータの強さが明らかになってきたのである。

チェスではさらに古く、1997年にIBMのスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」が、現役のグランドマスターのガルリ・カスパロフに勝利している。ゲーム理論において「二人零和有限確定完全情報ゲーム」と分類される将棋やチェスなどは、究極的には計算力が優れている方が勝つわけで、プロ棋士の敗北は時間の問題であったと言える。

むしろこのような計算力が試されるゲームにおいて、人間であるプロ棋士がここまで粘り強く戦えることに、私は感動を覚えた。今回の電王戦の最終局のソフト「GPS将棋」などにいたっては679台のPCを並列化したというモンスターマシンであり、それらと互角に渡り合えるとされているプロ棋士たちの頭脳には心底畏怖を感じる。

他方、第三局で船江恒平五段を打ち負かしたツツカナはCore i7 3930Kが搭載されたデスクトップ1台であるわけで、力技のマシンパワーではなく、アルゴリズムにおいて秀でている。その特徴がプロの棋譜をもとに「人間に近い読み」を行なうこととされるのは、非常に興味深い。コンピュータ将棋にはいくつかのイノベーションがあったのだが、機械の強さを活かした全幅検索を行なうBonanza以降にこうしてまた「人間らしい思考」が見直されるあたりはAI研究の点でも面白い。

 ゲーム文化における競争と語りの重要性

子どもの頃に将棋に親しんだ経験のある私は、世紀の対戦である電王戦の結果について書きたいことはいろいろあるが、それは別の機会においておこう。もとより私のようなヘボ将棋指しが語るより、電王戦について書かれた優れた記事は数多くある。ぜひとも電王戦で将棋に興味を持った方は、これを期に「将棋を語る」ことの楽しみを覚えてほしい。

もちろん、報道されたニュースには「人間対コンピュータ」という安直なSF的設定で人々の興味を沸かせるものも多かった。しかしながら、プロの解説者はともかく、アマチュアの将棋指しが書いたブログの中にも興味深い分析やわかりやすい解説などが多くあり、「将棋」というゲームの文化としての厚みを改めて感じたのである。

今回話題にしたかったのはこの点だ。つまり、ゲーム文化における競争と解説の重要性である。「人間対コンピュータ」という効果はあったにしろ、今回の電王戦で将棋という「古いゲーム」にこれほどまでの人が引きつけられたのは驚いた。ニコニコ生放送の視聴者数は200万人を超えたという。

もちろん、将棋の世界には、新聞社がスポンサーとなるタイトル戦が根付いており、多くの人が対局の観戦を楽しんでいる。現在の将棋文化は戦後に日本将棋連盟が努力して育て上げたものであり、一朝一夕にできるものではない。ともあれ、こうした形で将棋は一つの「文化」としても、プロ棋士が存在する「ビジネス」としても成立しているわけである

ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』の中で提示した4類型の一つに「競争(アゴン)」がある通り、ゲーム文化にとって「競争」は重要な要素である。サッカーなどのスポーツは当然、チェスや将棋のようなボードゲーム、ポーカーやブリッジのようなカードゲームにもプロ選手や世界大会は存在する。プレイヤーやオーディエンスが多いから大会が成り立つのか、大会があるからオーディエンスが集まるのか分からないが、少なくとも「競争」は人々の興味を引き起こすのは間違いない。ビデオゲームの世界でもそれは変わらないだろう。

翻ってビデオゲームの世界に目を向けると、3月29日に行われた対談イベントがきっかけとなり、社会派ブロガーとして知られるちきりん氏が日本で一番有名なプロゲーマー(もしくは、世界で一番有名な日本のプロゲーマー)の梅原大吾氏に関する一連のエントリーを公開しており、話題を集めている。ストイックなプロゲーマーと人気の社会派ブロガーという意外な組み合わせが注目されているということはあるが、ゲームと教育、仕事と才能と努力など非常に様々な論点が議論されている。

ちきりん氏という影響力あるブロガーがビデオゲーム、それも対戦格闘ゲームに興味を持ってもらえるのは大歓迎である。今後も格闘ゲームの大会などに足を運んでもらえるとうれしい。だが、「仕事論」というテーマを超えて、ビデオゲームについて語れることは多くあると思う。

現在は、国内ではニコニコ動画やニコニコ生放送、海外ではYouTubeやTwitchTVといったサービスを通じて、ゲームストリーミング文化が徐々に根付きつつある。視聴覚メディアであるため当然だが、ビデオゲームはストリーミングを通じて、新しいオーディエンスやファンを根付かせるだろうが、ゲームの動画だけではなく、「分析」や「解説」ももっと読みたいと思うのだ。

そもそも、視聴数という点では 『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』での梅原とジャスティン・ウォンの伝説的な対戦はニコニコ動画とYouTubeを合わせると200万再生を超えている。だが、それを言えば今回の電王戦を実際に見ることなしに知った人がどれだけ多くいるのだろうか。私も実際にリアルタイムで楽しんだわけではなく、棋譜を通して対局を観戦したのだ。

動的な格闘ゲームを言語化するのはなかなか難しいが、電王戦に関する分析や解説にように、格闘ゲームなどの大会の分析や解説も読みたいと思うのだ。個人的には、プロのプレイヤーが存在するゲーム文化の基盤は、そういったたくさんの言説が重ね合わせられて成り立っていると思うのだ。スポンサーや大会が開催されるということも重要だが、この「語り」の部分こそゲームを文化として基礎づけるために決定的な役割を果たしている。なので、これからも日本にもより多くのゲームに関するブログが増えることを期待している。

2013年4月12日金曜日

ビデオゲームの多様性:フェミニズム、LGBT、インディーゲーム

前回に引き続き、今年のGDCを振り返ってみよう。

『The Walking Dead』(2012)や『極限脱出ADV 善人シボウデス』(2012)といった作品がGDCアワードで注目されたように、昨今ではアドベンチャー・ゲームというジャンルが再評価されている。そして、アドベンチャーの再評価と連動して、ビデオゲームにおける「ナラティブ」や「ストーリー」という問題が再検討されている。

「ルドロジー vs. ナラトロジー」といえば、これまでゲーム・スタディーズの中で幾度と無く議論されてきた問題だ。現在ではそのようなゲームにおける本質を問う議論は、どちらかと言えば鳴りを潜め、むしろ「ビデオゲームは何を語れるか」という関心に重きが置かれている感が強い。

実際、GDCでも「Game Narrative Summit」が開かれ、このテーマに強い関心を持つ人々が集まった。古くて新しいこのテーマだが、今回は「多様性」という観点からフェミニズムやLGBTの問題について考えてみよう。そして、この論点においてインディーゲームが果たす役割の大きさを最後に触れておきたい。

フェミニズムと多様性

フェミニズム――性差別の排除と女性の権利の拡張――は現代の我々の文明と社会にとって未だに重要な課題だ。文学、絵画、映画、マンガなどこれまであらゆる表現の様式に、フェミニズム的観点を取り入れる運動があった。比較的新しい表現であるビデオゲームにもその動きは少なからず存在するが、残念なことに日本ではほとんどまじめに論じられてはいない。

今回のGDCのGame Narrative Summitでも、クリエイティビティとビジネスの観点から、ゲーム業界は「女性」をもっと大切に扱うべきであるという講演が行われた。マイクロソフトのTom Abernathy氏によって行われたこの講演は、その主眼をビジネスに置いているとはいえ、我々が真剣に取り組むべき課題を言い当てている。(講演についてはこちらを参照:「【GDC 2013 Vol.71】ゲームの「クリエイティブ」と「ビジネス」に決定的に大事なのは"多様性"だ」。)

インターネット上のゲームの広告などを見るたびにうんざりすることの一つに、その性差別的/性的な表現があげられる。特に昨今ではモバイル・プラットフォームにおける性的表現は過激さを増しており、アイコン、バナー、キャッチコピーを問わず、露骨に(ほとんどは男性の)性的関心を煽っている。そのようなプロモーションによって確かに得るべき利益はあるだろう。だがビジネスとして見た場合でも、大半の女性ユーザーを切り捨てている。さらにゲームに単なる金銭的な価値以上を求めるものにとっても、そのような男性中心的なマーケットが持つ問題については真剣に考えていくべきだ。

また奥谷海人氏によれば、GDCで行われたIGDA公式パーティにおいて、「あまりにもセクシー過ぎる女性の衣装やダンサーの踊り方」に対して非難が向けられ、IGDAの「Women in Games」の理事を務めるBrenda Romero氏が抗議のために辞職したという。国際ゲーム開発者協会であるIGDAは、昨今のテーマを「多様性」と定めているため、このような過度に男性向けの催しに非難があつまるのは当然のことだと思う。日本のゲーム業界においても、しばしば、「ゲーム業界は男のものだ」というような誤った前提から、不要に露出が高いコンパニオンが登場する機会は多い。

このような現象は、従来のゲーム業界やユーザーが男性中心であることの証左であり、今後は真剣に検討していく必要がある。私は何も性的な表現を規制すべきだとは思わないが、男性と女性が対等に扱われるべき公の場において、そのような表現がなんら隔離されることなく行われることに対しては批判的である。実際、性的なコンテンツは魅力的なものである。だが、人を不快にさせることもあるということは忘れてはいけない。

LGBTに対するEAの取り組み

昨今では、単なる女性の権利の拡張としてフェミニズムだけではなく、性的マイノリティへの差別を是正する動きは、「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)というある程度のまとまりを持って論じられる。ゲームに関しても同様で、他の差別問題と同様、性的マイノリティについて今後は考えていく必要がある。

『シムシティ』(2013)でのサーバートラブル、モバイルゲームにおけるマイクロトランザクション(少額課金)の強化、バグの多さやサポートの不備など、様々な形で批判されることが多い巨大企業のエレクトロニック・アーツ(EA)。前回のコラムでも触れたとおり、昨今のインターネット上でのEAバッシングはいささか行き過ぎたものだ。しかし、少なくともLGBTなどの性的マイノリティへの配慮という点に関しては、EAは先進的な企業だと言える。

有名な事例としては『Mass Effect3』(2012)における同性愛描写をめぐる問題である。SFの世界では、古くから文明間の違いやジェンダー・ロールをテーマにしたものは多い。Mass Effectシリーズにおいても、当初から主人公であるシェパード少佐の性別をプレイヤーは男性女性から選択でき、続編では女性の同性愛イベントが存在した。さらに『Mass Effect3』では、シェパード少佐の性別に関わらず、同性間のロマンスが選択可能になった。

もちろん、これらはデベロッパーであるBioWareが熱心に取り組んできたことである。同社のシナリオライターでありゲームデザイナーであるDavid Gadier氏は、今年のGDCにおいて、ゲーム業界はセックスやジェンダーといった問題を真剣に取り組み、女性や性的マイノリティに不快感を与えるべきではないという内容の講演を行なっている。Gaider氏もユーザーの嗜好やビジネス的な理由から、これらの提言を行なっているが、実際に単なる金銭的な問題ではない。ビデオゲームが「感情を表現するメディア」であるとするならば、女性は当然、性的マイノリティに向けた表現も認められるべきである。

ご存知の方は多いかもしれないが、『Mass Effect3』における同性愛描写は物議をかもし、数千通以上の抗議のメールがパブリッシャーであるEAに届いたという。だが、EAはこれらのゲイバッシング的な抗議に屈することなく、本作のLGBT要素を検閲することはないと、BioWareの方針を擁護している。

もちろん、このような抗議の中には「ポリティカル・コレクトネス」におもねる大企業が、ステレオタイプ的なゲイ表現(いわゆるToken gay guy)を挿入することへの違和感もあったであろう。しかしながら、RPGという表現において、プレイヤーがキャラクターに自分のアイデンティティを重ねることが自然である以上、レズビアンやゲイのロマンスが描かれない理由などない。そういった表現に拒否感があるプレイヤーは単に自身のヘテロのセクシャリティに無自覚なだけであるのだ。

さらに言えば、EAは今年の3月にゲームにおけるLGBTについて考えるカンファレンスを開催している。「Hate Is Not A Game」が合言葉である本イベントでは、ゲームシナリオやキャラクターにおける「正統な」LGBTのあり方や、ゲーム業界に従事するLGBT、ビデオゲームにおけるホモフォビアの起源といったことが討論される予定だったそうだ。これらの姿勢から鑑みるに、EAのLGBTに対する試みは単なるポーズにとどまらないものだと言える。

インディーゲームの果たす役割

最後に、これらの女性や性的マイノリティへの関わりという点で、インディーゲームが果たす役割について触れておこう。

産業としてのゲームがヘテロ男性向けの表現を行なってきたからといって、何もデベロッパーやパブリッシャーがマチズモに完全に侵されているわけではない(もちろん、そういった人も存在するだろうが)。基本的には市場の動向に合わせいった結果、そのような表現が大半を占めているのだ。逆に言えば、女性のためのゲーム、LGBTのためのゲームといった市場が存在すれば、彼女たちの嗜好にあった表現ももっと多く生まれるだろう。

実際に、インディーゲームの中には女性やLGBTをテーマにした作品は多い。大規模なAAAタイトルなどと異なり、ニッチな市場で立ち回れるインディーゲームにとって、そのようなテーマはより扱いやすいのである。

中でもAuntie Pixelanteの『Dys4ia』(2012)は、注目に値する作品である。作者であるAnna Anthropy氏は、本作でトランスジェンダーである自身の経験に基づいた「自伝的ゲーム」に挑戦した。ジェンダーの揺らぎやホルモン治療をミニゲームで表現しており、プレイヤーはAnthropy氏のパーソナルな感情をゲームによって体感することになる。本作はIndieGames The WeblogにおいてTop 10 Indie Games Of 2012 (+2!) に選出されるなど、昨今、注目を集めている。(無料のフラッシュゲームであるため、こちらで実際にプレイできる。)

ゲームプレイという観点からは特別に優れた作品ではない。また、彼女自身も本作が万人向けのゲームだとは考えないだろう。だが、むしろ彼女が求めているのは、ゲームというメディアが持つ広大な可能性と多様性の方だ。

デベロッパーであるとともにゲーム批評家でもある彼女は昨年、著作『Rise of The Videogame Zinesters』を上梓した。その中で彼女は、「他の人の人生を経験してみる」という点において、ゲームほど直接的なメディアはないと主張する。そして、本のサブタイトルにある通り、21世紀はあらゆる人がゲームというメディアで表現することが可能な時代であると述べる。

Anthropy氏の主張はラジカルなように思われるかもしれないが、その実、非常に素朴なものだ。レズビアンが恋人に断酒を説得するゲームがやりたくてもなかったから、自ら作ったというエピソードが示すように、彼女の主張はピュアなDIY精神から導き出されている。

テクノロジーの発展により現代では、「Zinesters」のように――自主制作、自主流通の雑誌である「Zine」を作ったり、流通させたりする人々のように、誰でもビデオゲームを制作が可能になりつつある。それは自分のためだけのゲームであっても良いし、友人に向けたものだけでも構わない。ビデオゲームはそういった表現も受け入れることが可能なメディアであるはずだ、というのが彼女の言わんとすることだ。

私はもともとパンク・ロックやインディー・ロックを愛好する人間だけに、彼女の言葉には素直に心打たれた。巨大なエンターテイメント産業としてのビデオゲームが今後も存続する一方で、ニッチな市場やパーソナルな表現としてのビデオゲームはますます増えていくだろう。そして、女性やLGBTを重視した表現は、そういったインディペンデントでパーソナルなビデオゲームから生まれてくるはずだ。今年のGDCで話題になった「ビデオゲームの多様性」とは、インディーの精神によってもっとも強く後押しされるものだろう。

2013年4月8日月曜日

国内外で論争を呼ぶF2Pというビジネスモデル

今年のGDCも無事終了。波乱が予想される2013年のゲーム業界がいよいよスタートした。毎度よろしく一介のフリーランスである私は、金銭的な理由からGDCに参加することはかなわず、国内外のメディアを通してその盛り上がりを感じていた。

スマートフォンを含めたプラットフォーム戦争、インディーゲームの盛り上がり、アドベンチャーゲームとナラティブの復権など様々なトピックがあった。だがその中でも、「Free to Play Design & Business Summit」というカンファレンスが行われたことは注目に値する。

スマートフォンを中心として「Free to Play(以下、F2P)」というビジネスモデルを採用するゲームは増えている。日本語では「基本プレイ無料」と訳すしかないこのモデルは、現在ではコンソール機やPCといったプラットフォームを問わず、魅力的なものになっている。

しかしながら、「F2Pのビジネスモデル」といっても実際には様々な課金やマネタイズの手段があり、一概に説明はできない。またこのビジネスモデルは現在でも進化の過程を辿っており、今後どのような展開が見込めるかは未だ予想できない。(F2Pの歴史や課金手段についてはこちらのブログエントリ「有料ゲーム危機の時代 Free to Play(基本プレイ無料)で収益化はできるか」が参考になる。)

また、ビジネスにおけるそのメリットやデメリットについても、日本国内と海外では考え方が異なる。日本においては、主に収益向上のためにF2Pが採用されてきた。ソーシャルゲームの圧倒的な成長率は、このモデルを抜きにして語れないほど重要であり、その一方で若年層の高額課金が社会問題として認識されている。

昨年の「コンプガチャ問題」で火がついたこの問題は、業界側が自主規制のための団体を設立することで、一旦落ち着いたかに思える。だが、現在でも消費者庁はソーシャルゲームに関するトラブルが多発していることを警告している。単なる多額課金だけではなく、不正利用やアカウント停止など、F2Pやオンラインゲーム特有の問題が多数警告されている。他方、未成年者の「高額利用・高額請求」に関する相談はピーク時に比べると減少傾向にあり、業界団体による月額利用金額の制限などの取組が一定の効果をあげていることも指摘したい。(消費者庁によるこちらのPDF資料が参考になる。「インターネット取引に係る 消費者トラブルの実態調査」。もっとも未成年者に関しては夏休みにあたる8月の相談件数が例外的に大きく、未成年者のソーシャルゲームの課金システムに関する問題は依然として考慮していく必要があるだろう。)

昨今では、海外でもスマートフォンでのIAP(アプリ内課金)やマイクロトランザクション(少額課金)が社会問題化してきている。例えば最近では、5歳の少年がiPadのF2Pのゲームで1500ポンドの課金を行い、両親がアップル側に払い戻しを請求したという事件が話題になった。

このような事例はあるものの、これまで海外でF2Pが採用される理由は、主に収益向上より、海賊版対策のためであった。昨年の6月にリリースされたMadfinger Gamesのスマートフォン向けFPS『Dead Trigger』は当初は99セントの有料アプリであったが、1ヶ月後に無料化した。当然、最初にゲームを買ったユーザーからは非難の声が巻き上がったが、Madfinger GamesはAndroidでは本ゲームのユーザーの8割以上が海賊版をプレイしていることを理由にこの無料化を正当化した

東アジアをのぞく海外では、そもそもF2Pはそれほど浸透しておらず、IAPやマイクロトランザクションに対する批判は多い。もちろん、ビジネス的な論理からスマートフォンを中心に徐々にF2Pの流れは浸透しつつあり、昨今ではEAやGameloftという大手パブリッシャーがF2Pを採用しつつある。特にEAは今後のすべてのモバイルゲームにマイクロトランザクションを採用するという方針を打ち出し、これが業界に波紋を呼んでいる。

従来のゲーマーやメディアはどちらかと言えば、IAPやマイクロトランザクションといった課金方法に対して批判的である。批判点は、企業の「金儲け主義」を非難したり、これらの課金方法がゲームに与える悪影響を論じたり、ゲームに勝つために課金するという倫理的問題を指摘したり多岐にわたる。非難する側もこれらの論点が明確に整理されているわけでもなく、パッケージゲーム時代のノスタルジーを含む感情的な意見も少なくない。

そのような「F2Pに対するバックラッシュ」について、「Gears of War」などで知られる著名なゲーム・デザイナーのクリフ・ブレジンスキーがブログで反論するという場面もあった。彼はインターネット上の過度な「EAに対するバッシング」を諌めながら、「ヒップスター」や「ブーメラン世代」と呼ばれる現代の若者がゲーム開発にどれだけお金がかかるのかを理解していないと主張する。そして、もしF2Pといったマネタイズ手法やそれを採用したゲームが嫌いならば、それ以外のマネタイズを採用するゲームに金を払えばいいのだと主張している。

筆者はこのような現状のF2P化の流れを「ユーザーが望んでいるから起こっている」という意見には与しないが、いずれにせよ業界側、ユーザー側を問わず、F2Pによってゲーム文化がどう変化するかについては真剣に検討する必要がある。業界やメディアはF2Pというビジネスモデルに関するメリットだけを主張するのではなく、それが持つデメリットに関してもユーザーに対して周知すると共に、積極的に議論していく必要があるように思える。

このようにF2PやIAP、マイクロトランザクションに関しては、国内外を問わず今後も議論されていくことになるだろう。産業側は主に都合の良いマネタイズ手段としてF2Pを考えがちである。だが、実際問題、F2Pはただのビジネスモデルではない。それは部分的にゲームの内容やシステムに干渉し、プレイヤー側のエクスペリエンスにも影響を与える。

そのため、収益向上や子どもの高額課金というビジネス側のメリット/デメリットだけではなく、ゲームにおけるF2Pというビジネスモデルに対する美学的な考察も必要だ。ここで言う「美学」とは、主にユーザー視点で見た時のF2Pが持っている独特の経験のあり方の考察である。「なぜコアゲーマーはアイテム課金を嫌うのか?」、「F2Pとゲームの作品性」、「F2Pが破壊するゲームのマジックサークル」など、ビジネス以外の観点からも興味深い問題が数多く潜んでいる。

今回はそれらの問いを考察する余裕がなかった。だが、本コラムでは今後、「美学的観点からみたF2P」について折を見て触れて行きたいと思う。なお、1人のユーザーの観点から見たF2Pの持つ経験の問題点に関しては、イギリス人ジャーナリストのジェイソン・ブルックスの「基本プレイ無料と少額決済は悪の雑草なのか?」という記事が参考になる。記事の中で彼が述べる「ベストバイで60ドル出して、家に帰って明かりを消してサバイバルアクションに備えようってのに、クレジットカードを見るためにもっかい明かりをつけなきゃいけないってのはやっぱりおかしいよ」という意見は、一旦クレジットカードの登録を行えば、ワンクリックで可能なアプリ内課金の現状を正しく反映していないだろう。だが、彼が言わんとしていることは十分に伝わる。同じようなゲーマー的感性から、私もF2Pが持ついわゆる「マジックサークル」の破壊能力に心を痛め、「ゲーム内で現実の通貨を消費する行為」に心穏やかにしていられないのである。