2013年3月1日金曜日

部屋と引越しとビデオゲーム

PlayStation4の発表や著名ゲームクリエイターの飯野賢治氏の訃報が報道される中、私はこの一週間、引越し作業で忙殺されていた(SCEのコンテンツビジネスの戦略及び飯野氏については時期を改めて書きたいと思う)。そのため、ゲーム業界の動向については、一足遅れてニュースを確認している。しかしながら、「引越し」というある種の「イニシエーション」は人間とビデオゲームの関わり方を考えるには良いきっかけになったように思える。

引越しにおけるパッケージとダウンロード

他の国の人々はどうか知らないのだが、日本における引越し作業は苛烈を極める。なによりも日本の住環境はグローバルに見ると、極端なまでに狭い。そのくせに日本人は物を収集することに愛着を感じる人が多い。

私も御多分にもれず、大量のCDと本、そして音楽雑誌を所有しており(一部は研究のための資料なのだが)、それらが全体の荷物の中の大半を占める。ビデオゲームに関してはそれほど所有してはいないが、どう考えても日本人のサイズに合わないXbox360を運ぶのは苦労したし、捨てるに捨てれなくなっているセガサターンや故障したまま放置されている初期型のPSPなども発掘され、それらも運ぶハメになった。ついでに海外に渡航する知人から預かったパッケージソフトがダンボール2箱分もあった。

ゲームのパッケージソフトに関しては、その一部を中古業者に売りに出した。古本やCDなどと比べると、ゲームの中古市場は驚くほど安定している。古いゲームであってもパッケージなどがしっかり残っていると、予想以上の高値で買い取ってもらえるのだ。このような中古市場の存在は、日本でのゲームの流通がパッケージソフトからダウンロードに移行しない理由の一因になっているように思える。つまり、相対的に高い価格であっても、それらを買い取ってもらえる市場があるため、日本人の多くはパッケージソフトを買う傾向にある。

とはいえ、やはりパッケージソフトの管理は非常に煩わしい。引越し先で早々にモニターラックにXbox360を設置しても、ダンボールの奥底から遊びたいゲームソフトを探す気には到底なれなかった。インターネットの回線もまだ整っていないため、XBLAで以前ダウンロードしたゲームを遊ぶことしかできない。もちろん、引越し作業が忙しすぎてゲームなんてやっている場合ではないが、常にオンラインであり、その気になれば新しいゲームをダウンロードできるスマートフォンの便利さは引越しをすると痛感する。

パッケージソフトと異なり、ダウンロードしたゲームは転売が不可能であるが、自分のライブラリをハードウェアやストレージごと運べる。でも逆に言えば、パッケージソフトは「財産」でもあり、その転売の自由もあれば、管理のためのコストも必要なのだ。どちらも当然のことなのだが、「引越し」という非日常的によって、より強調され、より鮮明になる。今後は「財産として所有したい」と思うゲームだけをパッケージで買い揃え、その他のものはダウンロードなどで済ませる。現に音楽について行なっているのと同様の指針が私個人の中で固まった次第だ。

ゲームのプレイ環境とコンソールの設置場所

さて、荷物が無事に引越し先に運ばれたとしても、ビデオゲームに関するさらなる問題が待ち構えている。その一つは、コンソールの置き場だ。ひとり暮らしの人ならともかく、家族や複数世帯で暮らしている人にとって、据え置きのコンソールの置き場は1つの悩みの種だ。

私は以前、メインのデスクトップPCと共にXbox360を自身の個室に設置していた。成人男性の個室に設置されるXbox360はいかにも不健康そうなイメージを放ち、血なまぐさいFPSやTPS、ケバケバしい弾幕STG、オタク臭いノベルゲームをプレイするにはピッタシに思えた。

だが、とある事情からリビングルームにXbox360を設置してみると、それらのゲームジャンルが途端に似つかわしくないもののように思えてきた。当たり前だ!子どもがいるリビングでGears of WarやGTAシリーズはプレイできないし、ソファーに座りながらアーケードスティックで弾幕STGをやっている姿はなんだか情けない。ノベルゲームに至ってはプレイするだけでなんだか恥ずかしい!(『STEINS;GATE』のファンである私は、同スタッフが制作した『ROBOTICS;NOTES』の体験版をプレイしてみたが、その内容とかそういう問題以前にリビングルームでやるゲームではないと判断した。)

ハードウェアやデバイスさえあれば、それでプレイするゲームは個人の自由だと我々は思いがちだ。しかし、実際にはプレイする環境によってコンテンツの種類は変化するし、我々の住環境の自由度は思ったほど大きくない。ゲーム専用のコンソールが登場して以来、TVモニターはゲームが遊びたい子どもとテレビ番組を見たい大人の戦場となった。そのような歴史を熟知しているため、任天堂がWiiUでディスプレイを搭載したコントローラーを採用したことは不思議なことではない。

現在の日本においてこれほどまでに単純なカードバトル型のソーシャルゲームが受け入れられた理由として、日本人の通勤通学環境がよく引き合いに出される。しかしながら、モバイルデバイスやスマートフォンなどだけではなく、実際のところコンソールで遊ぶゲームのジャンルや種類も住環境や家族構成によって左右されるのだ。場合によっては同居人の趣味などによっても、それらは変化を強いられる。(ビデオゲームに寛容な同居人を持つ幸福な私は、Xbox360をリビングに置いた後、カウチスタイルで『スコット・ピルグリムVS.ザ・ワールド: ザ・ゲーム』を楽しんだ。そうすることで、スマートTVとして受け入れられているXbox360の北米的イメージが理解できたように思える。)

アーケードパラダイス日本!

さて引越しを行なって数日たった今でも家の中はダンボール箱の山だ。コンソールは無事に設置されたが、インターネット環境もなく、落ち着いてゲームができる環境には程遠い。一応、仕事用に使っているラップトップにはSteamがインストールされており、日本の同人ゲームのいくつかもダウンロードされているが、ダンボールに囲まれて小さなモニタでゲームをやる気は起こらない。

仕事のためにインターネット環境のある場所に向かう私は、ついついゲームセンターに足を運んでしまった。そうだ!アーケードがあるじゃないか!いくら引越し中とはいえ、幸福な日本の私にはアーケードがあるじゃないか!

十中八九タバコ臭く、複数のゲームの音が入り混じり、騒々しい日本のゲームセンター。ゲームをやらない人にとっては近寄りがたく雰囲気をプンプン放っている。だが、久しぶりにアーケードに足を運んだ私には懐かしさがこみ上げてきた。薄暗い照明の中、殺伐とゲームをプレイするゲーマーたち。未来的であるのと同時に懐かしいブラウン管モニタの数々。その環境はすべての種類のゲームにふさわしいわけでは決して無いが、それでもゲームをやるための純粋な場所、神聖な場所なのだ。

アーケードではゲームは決して所有の対象ではない。もちろん、個人で高価な筐体や基盤を購入するマニアはいないわけではないが、基本的にアーケードゲームは私的所有権を阻んでいる。そこではプレイヤーはワンコインの元に平等であり、個人の所有欲といったものとは関係なく、ゲームに対する愛情を注げるのだ。

100円を消費して体験する濃密な10分間(遊べる時間はプレイヤーのスキルによるが)。それは私にとってゲーム体験のオリジンであり、一番ピュアなものだ。電車の中の乗客や同居人の目をはばからずゲームを愛する人達の中でプレイができる最高の環境のひとつなのである。

アーケードもしくはゲームセンターは全盛期に比べると衰退しており、店舗も減少傾向である。しかしながら、ある程度の都市ならば1、2のゲームセンターが見つかる日本は世界的に見れば非常に恵まれた環境である。アーケードに足を運べば、ゲームソフトはコンソールを持たなくても、人はみな平等にゲーマーになれる。そんな当たり前のことを、引越しという非日常を経験することで改めて気づいたのである。