2013年7月29日月曜日

ストリートカルチャーとしての同人ゲーム

8月も間近に控え、いよいよサマーシーズン。日本のゲーム業界的には、8月21日から23日までパシフィコ横浜で行われるCEDEC2013が最大のイベントだろう。1999年から開催されているこのゲーム開発者の交流イベントは、日本版のGDCとして捉えることができる。徐々に認知され、現在ではそれなりに大規模なものになってきた。とはいえ、昨年のCEDECの参加者数は4500人ほどであり、2万3000人ものの開発者を呼び寄せるGDCと比べると小規模だ。IGDA日本が取り組んでいるように、今後は海外からの若い参加者も増えてCEDECが大いに盛り上がることを期待している。

さて夏といえばもう一つ大きなイベントがある。8月10日から12日まで東京ビッグサイトで行われるコミックマーケット(C84)である。こちらはゲーム業界と直接関係はないが、三日間で50万人規模の参加者で賑わう超大規模なイベントだ。出展者側のサークル参加者数も3万人を越しており、規模だけみればGDCを凌駕するクリエイターのイベントであるといえる。

同人文化におけるビデオゲーム

基本的に紙媒体の表現で始まったコミックマーケットを含めた現在の同人文化。昨今では初音ミクやニコニコ動画の影響もあって音楽ソフトを頒布するサークルが増えており、「同人音楽」というジャンルも確固たるものとして確立しつつある。そして、紙の同人誌や同人音楽といったジャンルと比べると微々たる規模であるが、ビデオゲームの同人文化も存在している。

コミックマーケットでは「同人ソフト」という名称でくくられているが、創作物としてビデオゲームを頒布しているサークルは800程度存在する。ゲームの種類もクオリティも千差万別であるが、規模だけを考えると、これは明らかに国内最大のインディーゲームのイベントと言える。そして、コミックマーケット以外の同人誌即売会や同人誌を専門に扱う「同人ショップ」でもビデオゲームは流通しており、これらは総称して「同人ゲーム」と呼ばれる。

同人ゲームの世界には、二次創作やアダルトコンテンツも含めて、多様な作品がある。もちろん、オリジナルな作品も数多くあるが、特徴的なのは特定のジャンルへの愛着を感じさせる作品が多いことである。メジャーなゲーム産業からは「枯れた」もしくは「ニッチ」として扱われる格闘ゲーム、シューティングゲーム、ビジュアルノベルといったゲームジャンル。だが、同人ゲームの世界では、それらのゲームジャンルは主役級の人気がある

しかしながら、もっぱらPC向きに制作される同人ゲームの世界は、まだまだマイナーな世界だ。もちろん「東方Project」のZun氏、「ひぐらしのなく頃に」の竜騎士07氏など、一部には有名なクリエイターは存在している。しかし、彼らのファンのすべてが原作の同人ゲームをプレイしたかというと、そうでもない。コミックやアニメなどのメディアミックスの一部として消費している人もたくさんいる。

また日本のPCゲームが非常にニッチであることも、同人ゲームがマイナーであることの一因だ。実際には、SteamなどのPCゲームプラットフォームでは、同人ゲームが世界に向けて販売されており、そのいくつかは商業的な成功も収めている。ただし、日本のゲームメディアがそれらを扱うことは非常に稀であり、結果として同人ゲームの世界は未だにアンダーグラウンドであると言ってよい。

商業ゲームに対するストリートカルチャー

とはいえ、そのマイナーさ、そのアングラ感が同人ゲームの世界にある種のアウラをまとわせているということも否定できない。私はゼロ年代を通して、秋葉原の同人ショップに足を運び、同人ゲームのパッケージソフトを購入してきた。そして、そこで得られるものは本当に貴重なものが多く、未来のゲーム史に残るであろう作品と出会ってきたのだ。

基本的に同人ショップにはアダルトコンテンツが多く、足を踏み入れるのにためらう人も多いだろう。だが、好奇心に忠実になり、勇気を持って足を踏み入れよう。覚悟に見合った対価は確実にある。通常のゲームショップはもちろん、Steamにもインターネット上にも公開されていない素晴らしい作品と出会えるかもしれない。現在は無名なクリエイターの作品でも、もしかしたら今後は世界的に成功を収めるかもしれない。実は有名クリエイターが趣味の延長として匿名で作った作品かもしれない。そして、あなたが手にするものは、歴史を変えるビデオゲームの貴重な初回プレスかもしれない。

このように即売会や同人ショップに足を運んで同人ゲームを買うことは、ゲームショップに並んでいる最新作を買うのとは違った楽しみがある。本当に希少でAmazonにもインターネット上にも流通しないビデオゲームが数多くある。それらの多くは大手パブリッシャーがリリースするゲームに比べるとチープで粗雑で低品質かもしれない。だが、ゲームショップやAmazonでは決して流通しない個性的なゲーム、クリエイターの内面が表れたパーソナルなゲーム、ゲームジャンルやキャラクターへの愛情があふれたゲームと出会えるのだ。しかも、それらがパッケージソフトの形で並んでいるのだ!

もちろん、パッケージも工場で作られたものからお手製のものまでクオリティはまちまち。だが、それらに詰められているのは、ビデオゲームへの確かな愛情と創作物を純粋に楽しんでほしいというクリエイターの魂だ。たとえ小規模であっても、フィジカルな形でクリエイターの熱意を感じられる同人ゲームの世界は、もっともエネルギーに満ちた日本のインディーシーンといって過言ではない。

オフラインの場で直接、作品が流通するその様子はまさにストリートカルチャー。東京ゲームショウで発表される大手パブリッシャーの新作がパリコレの最新服であるならば、即売会や同人ショップで流通するビデオゲームはストリートファッションだ。実際にゼロ年代の秋葉原では歩行者天国が実施され、今は無き同人ショップ「メッセサンオー同人ソフト館」の店頭には同人ゲームのデモ動画が流されていた。世界広しといえども、インディーゲームのデモ動画を店頭から路上に流すような文化は、日本の同人ゲーム以外にはなかったのではないだろうか?

昨今では、IGDA日本が開催する東京ロケテゲームショウ、同人ゲームサークルのへっぽこ氏が開催していただらだらと 同人ゲームであそぶ会など、即売会以外で同人ゲームに触れる機会も増えてきた。さらに今年の11月17日には、同人&インディーズゲームオンリーイベントである「デジゲー博」が大田区産業プラザPiOで開催されるそうだ。同人ゲームに対する認知度が上がっていくことが期待される。

もちろん、同人ゲームだけが日本のインディーゲームではない。だが、そのコアの一つであることは紛れもない事実だ。日本のインディーゲームを盛り上げていきたい人ならば、これらのイベントに足を運ぶことは義務ですらある。日本には素晴らしいインディーゲームが既にある。ただそれらは比較的、アクセスしにくい場所に存在しているのだ。

また日本のインディーゲームシーンに注目している人にも、ぜひともこれらのイベントに参加してみてほしい。パッケージされたものを交換するというプリミティブなコミュニケーションによって、フィジカルな形でその文化に触れることができる。イベントに参加することで、あなたは単なるゲームのプレイヤーではなく、ストリートカルチャーの参与者へと変容するのだ。

2013年7月23日火曜日

Forever '80s! 世代文化としてのビデオゲーム

思えば2000年代はずっと80年代リバイバルだった。

最新作ではレイドバックした70年代風のディスコサウンドをフィーチャーしたダフト・パンク。だが、大ヒットした2001年の『ディスカバリー』は、ゼロ年代のダンス・ミュージックを(70年代末の日本のアニメと共に)'80sの世界観に仕立てあげた。ファッションの世界では、短い丈のライダースやキラキラした(昔はスパッツと呼ばれた)レギンスは2000年代中頃には復活。その勢いはとどまることなく、2009年に「キング・オブ・ポップ」のマイケル・ジャクソンが亡くなったことによってさらに加速した。

USオルタナティブ・ロックに傾倒して、着飾らないパンクスたる私にとって、'80sファッションのリバイバルは唾棄すべきものであった。音楽としてもニュー・ウェーブならともかく、マイケル・ジャクソンなんぞはもっての他であったし、インターネット上でのEDMの盛り上がりなどは冷めた目で見ていた。そんな私の気持ちにはお構いなしに'80sリバイバルは2000年代を通してしぶとく生き残ってきた。

だが2010年代に入ると、私も'80sリバイバルがありのように思えてきたのだ。というのは、2010年代の'80sリバイバルは、ただのファッションではないからだ。それはビデオゲームを含む80年代若者文化の再解釈のように感じる。

80年代文化とビデオゲーム

現在の'80sリバイバルが目指すのは、カウンターカルチャー発ヒッピー崩れのライブエイドのようなものとは決定的に異なる。コンピューターテクノロジーの発展によって拡大した電子音楽やヒップホップ、ビデオゲーム、SF映画といったポップカルチャーの再解釈だ。

実際にコンソールゲームが登場したのは、70年代末から80年代初頭だ。Atari 2600が1977年に登場して、今年30周年となる任天堂のファミリーコンピューターは1983年に発売された。ちょうど同じ時代に、ブロンクスの黒人、ヒスパニック、カリビアンたちは安価になったターンテーブルやサンプラーといったテクノロジーを利用して新しい芸術様式を作り上げた。

ロックマンのトラックでパフォーマンスを行うラッパーのMega Ranはインタビューで自分が「ヒップホップとビデオゲームで育った」と語っている。2006年から活動を続ける彼は、カプコンからの正式なライセンスを受け、ゲーム音楽の世界のラッパーとして海外では人気者だ。日本人にとってヒップホップとビデオゲームという組み合わせは異色のものに思える。だが、1977年にフィラデルフィアで生まれたMega Ranにとって、それらは同じ時代に体験したものなのだ。

他方、ロック・ミュージックの流れにもこれらのテクノロジーは影響を及ぼした。パンクからニュー・ウェーブが登場、シンセサイザーの音は特別なものではなくなった。現在では、それらの80年代の電子楽器のサウンドは、ビデオゲームとのつながりの中で使用されることも多い。クラブ・ミュージックにチップチューン的なサウンドが使用されることも珍しくないし、ハードコアパンクとチップチューンが融合した「Nintendocore」というジャンルは2000年代のインターネットで人気を博した。

映画では『スター・ウォーズ』の第一作目が1977年に公開、SFブームを巻き起こした。その後も『エイリアン』(79年)、『E.T.』(82)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)とSF映画の人気が高まり、テクノロジーの恩恵にあやかったFX技術は80年代の映画の世界の花形だった。また動画だけではなく、エアブラシなどの新しいツールによって描かれたそれらの映画のポスターは80年代のイメージを強く喚起させる。また同時期に一気に商業的に人気を博したヘヴィメタルは、音楽的には保守的なものとして扱われることが多いが、そのファンタジックな世界観やバンドロゴのタイポグラフィは、後の世代のビジュアルイメージにインパクトを与えた。

これらの'80sのビジュアルイメージを音楽と共に再解釈してみせたのがフランスのValerieだ。2007年にブログの形でスタートしたValerieは、これまでエレクトロハウスやシンセポップの音源をリリースしてきた。イラストレーションやデザインを手がけているThe Zondersは、'80sにこだわらないシュールレアリスティックな作風が特徴のデザイン集団だが、Valerieでは徹底して80年代の映画のポスターやヘヴィメタルのバンドロゴからインスピレーションを受けたビジュアルを採用している。

偏執狂とまでも言える'80sリバイバル集団のValerieだが、その美学はニコラス・ウィンディング・レフン監督の映画『ドライブ』(2011)にも引き継がれた。バイオレンスとロマンスが入り交じる個性的な映画だが、主演を演じるライアン・ゴズリングは劇中歌で示されるようにスカジャンを着た80年代の「真のヒーロー」であるのだ。

そして、この『ドライブ』にインスピレーションを受けたのが、昨年のインディーゲームシーンで大絶賛された『Hotline Miami』なのだ。1989年のマイアミを舞台にデロリアンで移動するマスクをかぶった主人公のファッションもジーンズにスタジャンだ。ゲームのビジュアルも80年末から90年代にかけてのアーケード風。一見レトロにも思えるが、実際には非常にスタイリッシュで斬新なビジュアルだ。

このように現在の'80sリバイバルにとってビデオゲームは重要なアイテムだ。というのも、60年代、70年代の若者文化と80年代のそれを決定的に分けるのがビデオゲームであるからだ。そのため、80年代を強く打ち出しているフレンチ・ハウスのアーティストが先日、ビデオゲームをリリースしたのもそれほど驚くことではなかった。

1986年にフェラーリ・テスタロッサのドライブ中に交通事故で死亡、ゾンビとなって2006年に復活したという「設定」のもとに活躍するKavinsky。彼の音楽はその馬鹿げた設定と同様、明らかにダフト・パンクの流れを組んでいるわけだが、ファッションはやはりスタジャンにジーンズ、そしてサングラス。ゲームはあくまでもアーティスト活動の一環であるため、内容はそれほどゴージャスではない。だが、ベルトスクロール風のアクションとテスタロッサのカーアクションは十分に80年代から90年代にかけてのビデオゲームの世界観を反映している。

もちろん時代の流行は地域によって異なっている。だが、ビデオゲームは映画や音楽といった80年代文化と共に先進国の中流家庭に流れ込み、当時の少年少女たちの子供時代を形成してきたのだ。そのため、成長して大人になった彼らが80年代に特別な思い入れを抱き、そこから新たなゲームを制作する可能性は大いにありうる。

ビデオゲームは、2000年代の'80sリバイバルを通して確実にユースカルチャーとしての地位を獲得しつつある。だが、ビデオゲームにとっての'80sリバイバルはまだまだこれからだ。もっと再評価されるべきビデオゲームのビジュアル、デザイン、音楽、そして世界観があるのだ。2000年代の'80sリバイバルにはいまいち乗れなかった私だが、2010年代の'80sリバイバルがビデオゲームを正当に評価するなら諸手を挙げて賛成しよう。そうだ、ビデオゲームが評価されるならば、後10年、'80sリバイバルを続けても良い。Forever '80s! Forever videogames!

2013年7月8日月曜日

スクウェア・エニックスの方針転換と日本のPCゲームの行方

早くも2013年の折り返しの時期がやってきた。GDCやE3といった海外の大規模なイベントを終え、日本のゲーム業界はCEDECや東京ゲームショウがひかえる下半期に突入しようとしている。今年は次世代ハードが登場するということで、ゲームに関するニュースは業界外からも注目されている。

私個人としては次世代ハードにはそれほど興味がない。というのも、現在のビデオゲームの技術は一定の水準まで到達しているため、その技術の範囲内で可能な表現を模索することに重点が置かれていると思うからだ。音楽産業がその再生装置よりもコンテンツの内容にシフトしていった時代のように、ゲーム産業はコンテンツビジネス、エンターテイメントビジネスとしての比重を強めつつあると思われる。

そのような観点からは、次世代ハードの発表以上に衝撃的だったのは、スクウェア・エニックスが『ドラゴンクエストX』のWindows版のリリースに踏み切ったことだ。現在はβテスト中であり、2013年9月26日に正式にサービス開始予定だ。

昨年、Wii版がリリースされた本作は、シリーズ初のオンラインゲームということでファンからも賛否両論あった。ソフトの売り上げは、過去のナンバリングタイトルと比べると低調だが、月額利用料金があるため、単純な比較は成り立たない。最終的な利益もオンラインゲームである以上、まだまだ予想できないが、今回のWindows版のリリースでユーザー規模自体は広がると見込まれる。

脱コンソール化するスクウェア・エニックス

このスクウェア・エニックスのPCプラットフォームでの展開は、同社の経営不振を考えると当然の措置とも思える。2013年3月期に旧エニックスとスクウェアの合併後のはじめての営業赤字。6月にはその責任を取る形で和田洋一社長が退任している。

この業績悪化における「戦犯」は、買収した英アイドスからの新作『ヒットマン』や『トゥームレイダー』の販売不振とされている。カナダのユナイテッド・フロント・ゲームズと共同開発した『スリーピングドッグス』なども含めて、スクウェア・エニックスの経営不振は、海外向けのビッグバジェットタイトルに責任が押し付けられている。そのため、これらの経営陣の退任後、同社が抱える各地のスタジオのリーダーを変更して、AAAタイトルからモバイルゲームに焦点をシフトしているという報道がなされていることも不思議ではない。

では、スクウェア・エニックスは今後、モバイルに特化した戦略を取るかといえばそうではないだろう。『ドラゴンクエストX』の展開以前に、5月には『ファイナルファンタジーⅦ』のWindows版をリリースしていることから分かる通り、同社の戦略はおそらく脱コンソールというものだろう。

もちろん、次世代ハードに向けては、ファイナルファンタジーやキングダムハーツといった同社の人気シリーズの他、アイドスのステルスゲームクラシック『Thief』の最新作のリリースを予定している。だが、PS4とXbox Oneといった次世代機の構成上、これらのタイトルがPCプラットフォームにもリリースされるのは当然の流れであり、今後、スクウェア・エニックスのタイトルの多くがPCやモバイルといった汎用機でプレイ可能になることが予測される。

日本に向けるPCプラットフォームの問題

とはいえ、これまでのスクウェア・エニックスによる国内のPCプラットフォームに対するアプローチは問題含みであった。『Deus Ex: Human Revolution』のリージョンロック問題、『ヒットマン』、『トゥームレイダー』で相次いだ日本語バージョンのロック問題。これらのやり方に多くのゲーマーは不信感を示し、スクウェア・エニックスがユーザーにこれらのタイトルのコンソール版を購入させること、もしくはコンソール版と同じ値段を払うことを強要してきたように思えてならない。

ただしこれらはスクウェア・エニックスに限ったことではない。PCゲームの一大プラットフォームであるSteamの日本ユーザーにはよく知られた言葉として「おま国」がある。いわゆる「お前の国には売ってやんねーよ」の略であり、様々な形のリージョン規制である。もちろん、リージョン規制自体は古くからコンソールにも存在してきた。だが、インターネットでつながったPCという最もオープンなプラットフォームで、そのような規制を行うことはユーザーからは非常に不自然に見える。

さらにそもそも日本においてはPCでゲームをやる文化が根付いていない。それらは80年代からの日本のゲーム産業を支えてきたコンソールの高い普及率の結果ではある。しかしながら、現状のゲーム産業を考慮すると、「イノベーションのジレンマ」に陥っているようにすら思える。

もちろん、日本人の多くはPCに慣れ親しんでいる。しかし、彼らにとってのPCは主にオフィスワークのためのデバイスであり、エンターテイメントは二の次である。国内に小規模なゲーム市場を持つWindowsならまだしも、Macユーザーの中には「Macではゲームができない」と思い込んでいる人は未だに多い。このような状況でビデオゲームの潜在的なユーザーをコンソールに囲い込むような戦略は、どう考えても裏目に出るだろう。

だが、こういった状況も時間とともに変化する。特に今回、スクウェア・エニックスはドラゴンクエストやファイナルファンタジーといった国民的ゲームをPCプラットフォームへ向けて展開してきたわけだ。これを機に多くの日本人が自身のPCでビデオゲームが遊べることに気づくと思われる。願わくば、スクウェア・エニックスにはユーザーにデメリットを強いるようなリージョン規制をやめ、他の日本のパブリッシャーがPCプラットフォームに目を向けるような活躍を期待している。

2013年6月27日木曜日

ビジュアルノベルのグローバル化

世の中にはありとあらゆるゲームが溢れている。そう感じる人は少なくないだろう。事実、その通りである。

しかしながら、我々がそれらの多様なゲームをプレイしているかというと、実はそうでもない。多くの人は、好みのジャンルやシリーズのゲームを絞ってプレイする。そもそも、それらの多様なゲームのすべてをプレイする時間はない。

だがそれ以上の問題は環境だ。多様なゲームの世界も実際のところ、言語、文化、地域、ハードウェアといった壁に阻まれている。日本語にローカライズされていないという理由で、遊びたくても未プレイのインディーゲームは10は下らない。インディーゲーム以外でも日本国内にパブリッシャーがつかないといった理由でプレイできないタイトルはたくさんある。

そのような理由でゲームのローカライズや他の地域やハードでのパブリッシュは、今後のゲーム文化にとって非常に重要だ。AAAタイトルは、開発と並行して多言語対応を行い、複数のプラットフォームで全世界同時リリースすることは珍しくない。しかしながら、インディーゲームやニッチなジャンルのゲームは、言語や文化、地域やハードウェアの壁に阻まれ、ユーザーが遊びたくてもプレイできないということは珍しいことではない。

ビジュアルノベルとオタク文化

中でも「ニッチの中のニッチ」とさえ言われる「ビジュアルノベル」は、これまで日本以外の地域ではほとんど開発されることも、流通することもなかったゲームジャンルである。そもそも、日本のPCゲームというニッチな市場で登場したジャンルである以上、日本国内でもビジュアルノベルはマイナーな存在だ。だが、アニメやマンガを含めたオタク文化の一つ、もしくはそのハードコアとして、ビジュアルノベルはその小規模なマーケットにもかかわらず、国内でも注目を集めてきた。

LeafやKeyといったアダルトゲームブランドの作品、『月姫』や『ひぐらしのなく頃に』といった大成功を収めた同人ゲームは、アニメ化、ノベライズ、コミカライズを受けて多くのファンを獲得している。また日本の批評やゲーム史においても重要なファクターとして幾度と無く言及されてきた。必ずしもファンのすべてが原作のビジュアルノベルをプレイしているとは限らないが、現在の(特に2000年代以降の)オタク文化を築いたものとしてビジュアルノベルの影響度は少なくない。

またゲームプレイのコアの部分はアクションやRPGであっても、日本のビデオゲームは部分的にビジュアルノベルを導入しているものが多い。要するに「立ち絵」と呼ばれるキャラクターグラフィックスにインポーズされるテキスト、及びボイスオーバーだ。ビジュアルノベルをプレイしたことがない日本のゲーマーの多くも、ゲームプレイの幕間に挿入されるパートでそれらに馴染んでいる。

他方、その「立ち絵+テキスト(ボイス)」というあからさまにアニメ・マンガ的演出は、日本以外のゲーマーにとっては非常に奇抜なものに映る。海外で人気のあるFPSやオープンワールド系RPGといったゲームジャンルの多くは、画面から極力テキストを排して、リアリティのある3Dグラフィックスで物語や世界観を表現するからだ。結果として、良くも悪くもそのようなビジュアルノベル的演出は、日本のオタク文化を強く印象づけるものであろう。

海外におけるビジュアルノベル

これらの日本のオタク文化やビデオゲームに与えた影響を考えると、海外のオタク文化のファンたちがビジュアルノベルに興味を持つことはさほど不思議ではないだろう。さらに『Kanon』、『ひぐらしのなく頃に』、『Fate/stay night』といった作品はアニメーションの形で海外のファンまで届いている。北米最大規模のアニメニュースサイトであるAnime News Networkのトップレーティングでは、『Steins;Gate』、『Clannad After Story』とビジュアルノベルを原作とした作品がワンツーフィニッシュを獲得している。これらの作品のファンの一部が原作をプレイしてみたいと思うことは自然なことだ。

先月、京都の立命館大学で行われた国際日本ゲーム研究カンファレンスでは、カナダ人研究者たちによる『Visual Novels Outside Japan』と題された発表が行われた。本学会には筆者も参加したが、発表で使用されたスライドはこちらで閲覧できる

彼女らによれば、ビジュアルノベルを日本国外にローカライズしようという試みは、比較的早い段階から存在したそうだ。アメリカのJUST USAはアダルトゲームを含むビジュアルノベルのローカライザー及びディストリビュータとして1996年に設立された。またヒラメキインターナショナルは日本のアニメーションのローカライズと共にビジュアルノベルのローカライズとパブリッシングを行うために2000年に設立された。

このようにビジュアルノベルは、2000年初頭からすでに海外向けに輸出が行われていた。しかしながら、アダルトコンテンツの販売の難しさ、海外では馴染みのないゲームジャンル、ローカライズのコストといった様々な困難に阻まれ、商業的には成功したとは言いがたい。

しかしながら、その後も日本のビジュアルノベルの多くは、海外にローカライズされてきた。それらの多くは「fan translations( ファンによる翻訳)」である。もちろん、これらの翻訳やローカライズは法的にグレイゾーンであり、ファンによる翻訳プロジェクトは商業ローカライザーやパブリッシャーと対立することもある。しかしながら、ビジュアルノベルのローカライザーとしては後発のオランダのMangaGamerなどは、ファンによる翻訳プロジェクトと日本の開発者を仲介して、公式にfan translationsをリリースすることもあったそうだ。

このようにビジュアルノベルは草の根レベルでは、確実に世界に広がりつつある。それでもビジュアルノベルが市場を獲得するのは、依然として困難であると先の発表の研究者たちは考えている。その理由は、ローカライズのコストやアダルトコンテンツの規制といった問題点以上に、欧米のゲーマーに「文字を読ませる」ことの難しさにあると、彼女らは考えているのだ。

先に述べたように、FPSやオープンワールド系RPGといった欧米で人気のあるゲームジャンルは極力文字テキストを排してきた。さらにそれらのゲームはプレイヤーの入力に対して素早くフィードバックが返ってくる。それに対して、ビジュアルノベルの多くは、選択肢などによるインタラクションをあるものの、それらの決定がフィードバックされるのは大量のテキストを読んだ後である。

欧米のゲーマーにとってビジュアルノベルの最大のハードルは「読むこと」であるという指摘は、発表でも紹介された以下の記事が参考になる。

Visual Novels: A Cultural Difference Between The East And West” from Siliconera
The Weird World of Japanese "Novel" Games” from 1UP.com

これらの記事では、そもそも、文字を読むという習慣が日本と欧米では、かなり異なることが指摘されている。確かに日本人はゲームに限らず、雑誌、マンガ、広告と様々なメディアで文字を読むことに慣れ親しんでいる。またゲームに求めるものも、日本と欧米では異なっているだろう。

草の根による国際化

このようにビジュアルノベルは日本の外では苦戦を強いられているという。そもそも、日本国内でもビジュアルノベルそれ自身はマイナーであるため、想像に難くない。だが、彼女たちは日本の外でビジュアルノベルが成功する可能性は、まだまだあると考えているようだ。その根拠として、カプコンの逆転裁判シリーズ(英題:Ace Attorney)が全世界で累計390万セールスを記録したことを指摘している。

日本人の感覚からすると、そもそも逆転裁判シリーズがビジュアルノベルに当たるのかという疑問もあるだろう。しかし、彼女らによれば、本シリーズは欧米でのビジュアルノベルの需要を少なからず示しており、何よりも多くのテキストを読むことで素晴らしいゲームに出会える可能性を示唆しているというのだ。

狭い意味でのビジュアルノベルではなく、キャラクターの立ち絵と膨大なテキストを含んだアドベンチャーゲームという意味ならば、確かに海外でも成功の可能性はあるように思える。以前に本連載でも書いたように、昨今ではビデオゲームの物語やナラティブが注目され、アドベンチャーゲームというジャンルが再評価されている。その中にはチュンソフトの『極限脱出ADV 善人シボウデス』といった日本の作品も含まれている。

またインディーゲームでは、文字テキストによる表現が見直されつつある。映画的な表現を好むメインストリームのゲームジャンルへの反動、もしくは古典的テキストアドベンチャーとしてのインタラクティブ・フィクションの再評価という流れも手伝い、現在では日本国外でもビジュアルノベルが開発されている。

例えば、Christine Loveの『Analogue: A Hate Story』は批評家からの評価も高く、IndieCade 2012のファイナリストを獲得した。キーボードで仮想的なコマンドラインにプログラムを入力して、AIと対話しながら過去の事件の真相を明らかにするというゲームデザインは、ビジュアルノベルというより、テキストアドベンチャーに近い。しかし、そこで登場するAIは極めて日本的な2Dの立ち絵で表現されている。物語の内容はLGBTといったセクシャリティに関連したシリアスなミステリーである。

またDischanは、ハイクオリティなビジュアルノベルを制作している国際的な開発スタジオだ。iOS向けに開発された『Juniper’s Knot』は、1時間程度の小品だが、非常に洗練されたアートワークとサウンドが堪能できる。現在、制作中の『Cradle Song』は学園を舞台にしたオーソドックスな内容になっているが、開発と並行して各国語版のローカライズが進んでいるのが興味深い。Dischanはゲームの開発だけではなく、インディペンデントなビジュアルノベルのディストリビューションを行なっており、そのクオリティの高さに驚かされる。

また日本でも同人サークルのぜろじげんは、PlayStation Mobileでビジュアルノベルの世界同時配信を目指している。サークル代表のマサシロウ氏は海外のアニメ系カンファレンスやイベントに参加するなど、国際的な活動を行なっている。新作の翻訳も海外のファンと連携しながら行なっており、ビジュアルノベルという文化を支える草の根レベルの交流は積極的に行われているようだ。

このような現象を見る限り、グローバルな舞台におけるビジュアルノベルというゲームジャンルはまだ始まったばかりなのかもしれない。また、英語圏におけるインタラクティブ・フィクションという伝統もそこには接続されており、テキストを主体にしたビデオゲームが今後、発展する可能性は十分にある。またRen’Pyのような海外産のノベルエンジンが登場したインパクトは大きく、今後、英語圏では一層多くのビジュアルノベルが制作されるのは間違いないだろう。(紹介した『Analogue: A Hate Story』も『Juniper’s Knot』もこのエンジンで開発されている。)

文化が文化と呼べるものであるならば、それは商業的な成功とは別なところにもゴールがある。これらのクリエイティブな試みが言語の壁によって断絶されているとしたら、それは悲しいことだ。まだまだポピュラリティーが低いビジュアルノベルというジャンル。指をくわえて待っていればローカライズされるという発想は甘いだろうが、今後はファンも含めた国内外の交流を期待している。

2013年6月19日水曜日

PlayStation Mobileのという新しいプラットフォームとその行方

E3が無事に終わり、次世代のハード、ローンチタイトルなどが明らかになってきた。私はどちらかといえば、Xbox Oneにせよ、PS4にせよ、ハードやソフトよりもそのサービスに興味がある。大方の予想通り、Xbox Oneはホームエンターテイメントのハブ、PS4はよりゲーマー志向の専用機であることはほぼ確定だろう。

どちらのハードにせよ、その成功はネットワーク上のサービスをどう展開していくかにかかっていると思う。ゲームコンソールはこれまで製品をリリースした後は、主にデベロッパーとのやりとりが重視されていた。だが、これからは「サービス事業者」としての意識を持ってエンドユーザーの顧客満足度を向上させることが必要だ。つまり、これからの戦いの舞台は、Xbox OneとPS4という単なるハードウェアだけにはとどまらず、Xbox LiveとPSNというオンラインサービスにもあるというわけだ。

双方ともプレイ動画のストリーミングなど新しい機能を投入してきているが、微妙な方針の違いがある。Xbox OneがXbox Liveアーケードのゲームを切り離す一方、PS4には後方互換性はないものの、SCEには「すべてのプレイステーションのコンテンツの互換性をクラウドで実現する」という長期的な目標があるとされる。この「長期的な目標」がどの程度まで実現可能かはさておき、この面でMicrosoftとSCEの間には長期的な戦略の違いが見られるように思われる。

Microsoftは、ゲーマーからノンゲーマーまでXbox LiveのコンテンツをXbox Oneで楽しんでもらうことを想定しているのに対して、SCEは「プレイステーション」という大規模なサービスの一部としてゲーマー向けのハードウェアであるPS4 を位置づけているように思える。

そのようなSCEのクラウドサービスとしてのPlayStationという方向性は、2012年の7月にGaikaiを買収したときにある程度、決まっていたようだ。その後、Gaikaiの技術が具体的にどのように活かされているのかは明らかではないが、PS4のいくつかの機能に活かされているらしい。ともかく、SCEの方針としてクラウドゲーミングという方向性があるのは間違いない。

そして、オンラインが前提としたマルチプラットフォーム対応のクラウドゲーミングとは別な技術だが、現在、SCEが展開している中で、それに近い試みとしてPlayStation Mobile(以下、PSM)があげられる。

そもそもPSMとは何か?

一体、PSMについてどの程度、知られているだろうか?正直なところ、ゲーム業界に従事している人以外でPSMについて言及している人は見たことがない。メインのハードウェアがPS Vitaの普及度がまだまだであるため、PSMの存在自体まだまだ知られていないようだ。

もともとはPlayStation Suiteという名前で始まったこのプロジェクトは、様々な端末で「PlayStationの世界」を楽しめるようにするのが目的だ。PSMは現在のところ、PS Vita及び、PlayStation Certifiedという認証のあるAndroidデバイスでサービスが開始されている。有料のダウンロード型ゲームがメインであるが、ゲーム以外のアプリの配信も可能だ。現在、順調に配信タイトルを増やしているとは聞くが、PS Vitaの普及がまだまだであるため、知名度も開発者もコンテンツも少ないのが現状だ。

新規プラットフォームにおけるコンテンツ不足というのは、必然的な現象だ。SCEはPS4でもPSMでも、このプラットフォームの立ち上げ時のコンテンツ不足に対して、インディーデベロッパーを呼び込むという戦略を行なっているように思われる。もちろん、以前に書いたようにプラットフォーム立ち上げ時のクリエイター発掘という方向性は、「ゲームやろうぜ!」や「PlayStation C.A.M.P!」に見られるようにSCEのコンテンツ戦略の十八番ともいえる。

実際に、インタビューにおいてSCEJシニアバイスプレジデントの桐田富和氏は「ゲームやろうぜ!」に言及しながら、PSMがクリエイター育成のためのエコシステムであることを強調している。とはいえ、PS Vitaの普及率の低さや年間7980円かかるパブリッシャーライセンスがネックとなり、これまでインディーデベロッパーにとってPSMというプラットフォームがそれほど魅力的には思えなかった。

だがSCE側もそれらの問題を認識したのか、期間限定のパブリッシャーライセンスの無償化、インディーデベロッパーとの積極的なコミュニケーションを打ち出してきている。さらに、MicrosoftがXbox Oneにおいて、インディーゲームを含めてこれまでのXbox Live向けのコンテンツを切り離し、開発環境であったXNAを終了したことも手伝い、インディーデベロッパーにとってにわかにPSMは魅力的なプラットフォームとして浮上している。

インディーデベロッパーから見たXNAとPSMの比較については、先日行われたIGDA日本のSIG-Indie(同人・インディーゲーム部会)における佐川氏の報告を記事を参照して欲しい。開発環境としてのPSMはまだまだ未開拓な部分が多いが、アプリの審査や卸売という販売方法などはインディーデベロッパーにフレンドリーな部分が多いといえる。

またこの勉強会では、パブリッシャーライセンスの無料期間の延長の可能性、インディーデベロッパーのためのイベントの開催予定など、SCE側はインディーゲームに積極的な姿勢を示している。PSMが2000年代後半にXNAやXbox Liveインディーズが担った役割を果たす可能性も少なくないだろう。個人的にもPlayStationというプラットフォームに対する興味は高くなり、今後も注目していきたい。

一方で、現状のPSMが抱える重要な問題点も浮き上がってきた。それはPSMが目指すものが、クラウドゲーミングのようなマルチプラットフォームなのか、クリエイター発掘のためのオープンプラットフォームなのか、いまいちはっきりしないことである。これは先ほどの桐田富和氏のインタビューにも表れており、一方ではクリエイター発掘を謳い、他方では多様な端末で同一のコンテンツを楽しむことを目指している。

しかしながら、SIG-Indieに参加した開発者たちの多くは、Androidで自分の制作したゲームが動くことよりも、PS Vitaで動くことを重視している。開発者としては多種多様なAndroid端末への対応を求められるよりも、最新スペックの専用機で自分のゲームが動くことの方が魅力的なのだろう。他方、SCE側としては様々な端末で「PlayStationの世界」を楽しんでもらい、プラットフォームとして拡大することを望んでいるのであろう。

もちろん、様々な端末に対応することとクリエイター発掘が両立しないわけではない。とはいえ、多様なAndroid端末への対応に追われ、ゲーム開発や流通のプラットフォームとしての魅力が下がるようなことだけは避けてほしいところだ。そのためには、多様なデバイスへの対応というクラウドゲーミング的な方向性とクリエイター発掘という方向性のどちらに重点を置くかをはっきりさせることが肝心になってくるだろう。

2013年6月6日木曜日

UIにおけるファインアートとしてのビデオゲーム

フラットデザインが流行っている。主にウェブデザイン業界の話であるが、次期iOSのデザインもフラットデザインを採用するという噂が流れており、エンドユーザーにとっても関心がある話題だろう。

「フラットデザインとは何か?」という話題が、昨今のブログで賑わっている。悲しいことにほとんど誰もXbox 360に触れてくれない。普通の日本人にとってXbox 360は馴染みのないゲームハードかもしれないが、昨今話題のフラットデザインの一つの明白な起源のひとつはXbox 360のダッシュボードである。

日本では2011年12月6日にアップデートされたXbox 360のダッシュボードは、「Metro UI」と名付けられていた。近々アップデートが噂されているが、このダッシュボードは現在も使用されており、私はそのデザインには愛着を持っている。このMetro UIは、その後のWindows PhoneやWindows 8のデザインの起源となったが、マイクロソフトのちょっとした不手際の結果、現在は「Modern UI」という呼称が用いられている。

スキューモフィック VS フラット

フラットデザインに関しては、賛否両論持ち上がっているが、私個人は好みである。Appleが推し進めてきたスキューモフィックデザイン(現実に似せたデザイン)の行き過ぎに対する反動から、フラットデザイン擁護者はそのシンプルさを訴えている。他方、スキューモフィックデザインの擁護者は、現実のオブジェクトや道具に似ていることによる利便性や使い勝手の良さを訴えている。

私はそもそも認知科学におけるアフォーダンスの議論をコンピュータUIに流用するという発想自体に懐疑的であるため、スキューモフィックデザインによって、利便性が高まるという主張にはあまり納得できない。さらに後述するが、究極的には現代のOSやアプリケーションなどのUIは既に使い勝手や利便性のためだけに存在しているではないと考えている。

フラットデザインの批判者の多くは、その使い勝手の悪さにケチを付けるのであるが、果たしてこれまでのOSやアプリケーションのUIがスキューモフィックであることによって、使い勝手が良かったことなどあっただろうか?ほとんどは慣れの問題である。見慣れたアイコン、見慣れたUIが使い勝手としては究極的には良いと思う。

Appleが推し進めてきたスキューモフィックデザインも使いやすさという言い訳があったにしろ、その大部分が単なるトレンドであったように思える。iPhoneのレコーダーアプリにコンデンサーマイクのような画像を表示するのは、確かに目新しかったが、便利と感じたことは一度もない。現実の質感に似せるためにシャドウやグラデーションを駆使するのは、デザイナーとしての腕の見せ所であったかもしれないが、正直、もうウンザリという気分だ。

スキューモフィックデザインが時代遅れに感じた個人的なエピソードがある。人気カメラアプリのインスタグラムのアイコンの変化だ。2011年に行われたアップデートでインスタグラムのアイコンは、ブラウンの落ち着いたフラットなデザインからカメラのレンズが飛び出すようなスキューモフィックなデザインに変化したのだ。

おそらく、投資家やマーケティングの判断であろう。今からしてみると、時代に逆行する変化であり、個人的にはアイコンがダサくなったと感じた。「写真」というメディアをスマートフォン時代に再解釈したインスタグラムというアプリは素晴らしいものだと思うが、インスタグラムが与えてくれる体験は、旧来のゴテゴテしたカメラで撮影する経験ではなく、もっとライトでフラットなものであったはずだ。

このように私個人としては、2011年の段階で、スキューモフィックなデザインに飽きていたし、同時期に登場していたWindows PhoneのUIには惹かれていたし、Windows8にも比較的楽観的だ。もちろん、機能的に考えると、慣れない部分はあるだろうが、新しいインターフェイスは新しい体験を与えてくれる。オフィス用のPCはともかく、パーソナルなデバイスのスマートフォンやタブレットにはそういった新鮮な体験を私は求めているのだ。

UIのトレンドを牽引するビデオゲーム

話がゲームから大きくそれたが、ここで現在のフラットデザインが普及したきっかけがXbox 360にあったことに目を向けてみよう(残念ながらWindows Phoneは普及したとは言えなかった)。Xbox 360が大胆なフラットデザインにも関わらず、多くの人々に受け入れられたのは、それがゲームのための、エンターテイメントのためのUIだったからだと思う。エンターテイメントのプラットフォームとして、利便性以上に新鮮な体験を演出できたのが、Xbox 360におけるフラットデザインの成功だったように思える。

衣服が既に利便性のためにあるわけではないのと同様、OSやアプリは利便性のためにだけあるのではない。App Storeにおけるゲームやエンターテイメントアプリの多さを考えれば当然だが、人々は便利さよりも楽しさ、新しさを求めている。そして、ビデオゲームはそのようなアプリケーションの中でもっとも制約が少なく自由に創作できる芸術なのだ。逆に言えば、ビデオゲームとは、純粋にインタラクティブなだけのUIとも言える。

よって、これからのパーソナルコンピュータやモバイルコンピュータのUIにとって、ビデオゲームは最も重要なアプリケーションだ。そこでは「機能性」や「利便性」といったことに囚われることなく、自由にUIの実験ができる。もちろん、その中には普通のアプリに取り入れようとは思えないバカげたものも多いだろう。しかし、ハイファッションが既製服に、ファインアートのデザインがコマーシャルなデザインに影響を与えるように、いくつかのビデオゲームのトレンドはUIに影響を与えると思う。UIやWebのデザインはより自由になり、トレンドや好みによって個々人が着飾るように選択する時代はそう遠くないと思っている。

2013年5月31日金曜日

Is Kickstarter just a hype? (PART3)

前回のコラムから大分、期間が開いたが、今回でクラウドファンディングの話に一旦ケリをつけたい。先週から筆者は京都の立命館大学で行われた国際日本ゲーム研究カンファレンスに出席していたが、そこでも北米のゲーム研究者たちとKickstarterの話題になった。

ゲームを研究するような人々が集まっていたわけなので、当然、ほとんどの人々がKickstarterでなんらかのプロジェクトに出資していた。「俺はあのプロジェクトのbacker(出資者)なんだ」と自慢話が始まり、最後には“We are all backers!”と謎の連帯感が生まれた。こういったオフラインのコミュニケーションもクラウドファンディングの楽しさの一部だろう。

さて今回は、実際にKickstarterなどのクラウドファンディングにおいて、新米クリエイターや新興デベロッパーが資金調達に成功している事例を紹介したいと思う。さらにオリジナルなタイトルがクラウドファンディング発で生まれ、すでにいくつかの成功例が登場していることを指摘したい。

Kickstarterがビデオゲームに果たした輝かしい功績を見るならば、手っ取り早くこのブログエントリーを見るとよい。2013年の3月21日付のこの公式ブログによると、Kickstarterでゲームのプロジェクトに集まった資金は累計1億ドルを突破している。さらにKickstarterで資金調達に成功したゲームで既に遊べるものがリストアップされている。

FTL (Faster than Light)、Kentucky Route Zero、Organ Trail...とインディーゲーム好きなら、誰でも知っているゲームが並んでいる。そして、それらのゲームはIGFやPAX、IndieCadeといったフェスティバルでアワードを勝ち取り、十分に評価されているのだ。

これだけでも十分にクラウドファンディングを通して新しい才能、新しい作品が世に輩出されているのが理解できよう。つまり、「クラウドファンディングはベテランクリエイターの引退後の食い扶持だ」といった主張は端的に間違っているのだ。

それらの誤解は著名なクリエイターや人気作の続編ばかり話題にするマスメディアによってよりいっそう助長される。なので、ゲームを愛する人、クリエイティブな表現を愛する人には、一度、自分の目で面白いプロジェクトがないか探してみてほしい。それでワクワクしない人は、自分の好奇心の衰えを心配したほうが良い。

さらにただ見ているだけではなく、少額でも良いのでぜひとも出資してみてほしい。Kickstarterでは、プロジェクトオーナーたちは頻繁に情報をアップデートする。そこではファンディングや開発の現状報告だけではなく、他のプロジェクトへの支援も呼びかけられる。結果、出資したプロジェクトのアップデートを通じて他のプロジェクトのキャンペーンを知ることも非常に多い。

実際に私は以前、紹介したCRYAMORE! というJ-RPGのプロジェクトに出資することで、C-Warsというプロジェクトを知った。このプロジェクトはCRYAMORE!と同様に、日本のゲームに強く影響を受けている。日本のアニメ風のキャラクターデザインと滑らかに動くドット絵が魅力的だ。そしてデベロッパーのOnipunksは、なんと北京のゲームスタジオなのだ!

フランスでゲーム開発を学び、本作ではオリジナルのゲームエンジンを手がけるリーダーのLoup Zhou、まさにドット絵狂い(pixel junkie)と言うべきアートディレクターのLouiky Muなど、合計6人のチームメンバーはとても若い。キャンペーン用のPVも非常にエネルギッシュ。北京というアジア圏からこのような若い才能が出現してきたことには、心底エキサイティングだ。

このように実際にクラウドファンディングでデビューする若い才能は十分に存在している。そして、そのプロジェクトが期待できるものならば、確実に資金は集まっている。画像、映像、音楽と多数の素材が必要なビデオゲームは、それらの素材を逆にプロモーションに利用することで資金を集めやすい。たとえクリエイターが無名でも、魅力的なキャラクター、魅力的な世界観を提示することができれば、資金は調達可能だ。

現状はビデオゲームのプロジェクトはKickstarterを中心に盛り上がっている。Kickstarterでは、日本から直接プロジェクトを投稿することができないため、その盛り上がりはイマイチ伝わってこない。しかしながら、それも時間の問題だと思われる。

前回、書いたように、インターネットを通してクリエイティビティに直接資本を投下するこのモデルは、デジタル時代のコンテンツ産業の究極形態のひとつである。そして、それが確かに効果を発揮すると私は確信している。日本からは同人ゲームの『九十九神』老舗同人STGサークルのSITER SKAINの三部作のローカライズのプロジェクトがファンドに成功している。(両者とも海外のローカライズ会社が主導している。前者に関してはインタビューで詳しい話をうかがった。

さらに国内のクラウドファンディングでは、黒川文雄氏が率いる『モンケン』がCAMPFIREで目下、資金調達に挑戦中だ。またCAMPFIREでは先日、『リゼットの処方箋』と呼ばれるゲームプロジェクトが開始された。著名なクリエイターは関わってはないが、水彩画風のビジュアルでポイント・アンド・クリックのゲームに挑戦するというなかなか野心的な企画だ。これらのプロジェクトの資金調達が成功するかどうかまだわからない。だがクラウドファンディングを通して、創造力の炎が日本でも燃え上がろうとしているのだ。

結論として、クラウドファンディングではベテランクリエイターや人気作の続編にしかお金が集まらないというのは単なる杞憂だ。もちろん、知名度が果たす役割は大きく、多額の金額が集まるのは確かにベテランクリエイターが関わったものだ。しかしながら、クラウドファンディングは確実に新しい才能を世に輩出している。そして、この流れが日本にも訪れることは時間の問題だ。Kickstarterは決して単なるハイプではなかったのだ。

2013年5月15日水曜日

Is Kickstarter just a hype? (PART2)

前回の予定通り、今回(とさらに次回)はデジタルなコンテンツにおけるクラウドファンディングの有効性について考察したい。物理的な製品に関するクラウドファンディングの有効性に私は限界を感じている。では映画や音楽、そしてビデオゲームといったデジタルなコンテンツに関してはどうだろうか?WIRED誌風に言うならば「アトムのクラウドファンディング」に対して「ビットのクラウドファンディング」はイケているのか?

デジタルであることのメリット

私の結論から言わせていただくと、ビットのクラウドファンディングはすごくイケている。ごくシンプルな問題として、物理的な製品と異なり、デジタルコンテンツはサプライを心配する必要がない。原材料はクリエイターの生活費だ。デジタルコンテンツは還元すればクリエイティブなデジタルデータであり、それを売買するというのは、物体に金を費やすことではなく、個人や手段のクリエイティビティに金を費やすことである。さらにデジタルコンテンツには在庫リスクが少ない。せいぜいサーバー運用費くらいだ。アップデートのコストも圧倒的に低く、リリース後に品質を向上させることは容易である。

サプライとアップデートの容易さ、在庫リスクの低さというこれらの3点だけでも、ビットのクラウドファンディングのメリットは明白だ。インターネットを通して個人や集団のクリエイティビティに対して直接資本を投下して、デジタルなデータを得る。ほぼオンライン上のデータのやりとりだけで完結するビットのクラウドファンディングは、デジタル時代のコンテンツ産業の究極形態のひとつだろう。

もちろんテクノロジーの発達によって、アトムのクラウドファンディングがこれらの利点の多くを獲得する時代は来るかもしれない。だが現状のサプライチェーン・マネジメントや3Dプリンタでのプロトタイピングを鑑みても、フィジカルな製品開発が抱えるデメリットはまだまだ大きい。スタートレックに登場するレプリケーターを夢見る人々がいるのは理解できるが、10年代は素直にビットのクラウドファンディングだけで良しとしたい。

しかしながら、これ以上何があるというのか! フィジカルな製品に比べると、デジタルコンテンツのためにクラウドファンディングを利用するメリットは明白だ。だがそれらのメリットを指摘しても、クラウドファンディングに関する懐疑的な意見は依然としていくつかある。以下では、そのような懐疑的な意見のいくつかを検討し、それでもなおデジタルコンテンツのためにクラウドファンディングを利用することのメリットを説明したい。またボリュームが多くなったため、次回もう一度、クラウドファンディングとKickstarterのビデオゲームのプロジェクトについて扱うことにする。

有名クリエイターに群がる高額出資、だがそれのどこが問題か?

差し当たり盗作や詐欺といったクラウドファンディングに関する一般的な問題点は無視しよう。それらはアトムでもビットでも同様に起こりうるリスク要因である。Kickstarterなどのクラウドファンディングサービスはプロジェクト起案者や出資者たちにそれらのリスクを周知することに努めており、ある程度の部分はユーザー一人一人の自己責任に帰される。金銭以外の報酬が約束されるリワード型のクラウドファンディングであっても、それが未来の製品に対する投資であることは変わりなく、出資者は自らのリスクを理解する必要はある。

そのようなものを別とすれば、Kickstarterに対する批判の一つとしてしばしば散見されるのは、高額な資金調達に成功しているのが、既存の有名なベテランクリエイターばかりだという意見だ。確かにティム・シェーファーが率いるDouble Fine Adventureやピーター・モリニューが率いるProject GODUS、さらにロード・ブリティッシュことリチャード・ギャリオットのShroud of the Avatarに至っては「ウルティマの精神的な後継者」という触れ込みでKickstarterで多額の資金を集めている。

このようなKickstarterの現状に対して、冷笑的に「クラウドファンディングはベテランクリエイターの引退後の食い扶持だ」という意見も聞かないわけではない。また既に人気があったゲームの続編も次々に高額の資金調達に成功している。例えば、Revolution Softwareの人気アドベンチャーシリーズのBroken Swordの新作やクラシカルなRPGの名門デベロッパーObsidian Entertainmentの新作 など。

このようなKickstarterの現状を見て、クラウドファンディングが新米クリエイターやオリジナルタイトルの発信地になっていないことを批判的に語る人は少なくない。私自身も過去にそういった意見を述べている。だが、この批判的な意見はKickstarterが爆発的に普及した現在には当てはまらない。次回、紹介するように、実際にはKickstarterを中心とするクラウドファンディングはオリジナルタイトルや新人のキャリアアップにつながっているのだ。

とはいえ、以上のようなベテランクリエイターや人気作品の続編にクラウドファンディングに資金が集まるからといって何が問題だといえるのか?そもそも、これらのプロジェクトにはパブリッシャーが資金を出すことを渋ったために、クラウドファンディングを利用したケースが多々ある。現状の肥大化したゲーム産業では実現しにくいプロジェクトにお金が集まっているならば、それはそれで良いことであるはずだ。

もちろん、中には出来レース的なクラウドファンディングも存在し、それらは資金調達というよりも、実際にはプロモーションの一環である。流行の方法でゲームを制作しましたというだけのものもあるだろう。しかしながら、Kickstarterで高額な資金を集めたゲームのジャンルの多くは、アドベンチャーやクラシックなRPGだ。それらのジャンルは現在のゲーム産業ではニッチであり、パブリッシャーが資金を渋っているため、クラウドファンディングで資金調達を行なっているのだ。

確かにベテランクリエイターや人気作品の続編には高額な資金が集まる。とはいえ、誰もクラウドファンディングを通して、CoDやGTAのようなAAAタイトルに支援しているわけではない。そういった意味では、クラウドファンディングがゲーム産業のオルタナティブな市場を作っていることは間違いない。新人やオリジナルタイトルに十分な資金が回って来ないという事実があるならば、ともかくとして、現状、「有名作品、有名クリエイターにばかり資金が集まる」という批判は的外れなものだと思える。

コンテンツ産業において、マーケティングを重視するパブリッシング部門と、独自性や表現欲求を重視するクリエーション部門が対立することは非常に多い。この対立は「金か芸術か」という安直な二項対立で議論されることが多かったが、クラウドファンディングとはこの二項対立における安全弁の役割を果たしているといえる。つまり、ニッチなジャンルであっても、クラウドファンディングを通して直接、ユーザーに呼びかけることで、ビジネスとしても成立するプロジェクトがあるのだ。

つまり、たとえベテランクリエイターや人気作品に資金が集まるとしても、ユーザーが支持する限り、クリエイターがプロジェクトの主導権が強くなっているのは間違いない。それは創りたかったものを創れるようにするクラウドファンディングという手法のあるべき姿であり、何ら批判すべき問題ではないのである。

次回は、この手の批判がそもそも誤解であることを説明する。実際に、Kickstarterなどのクラウドファンディングにおいて、新米クリエイター、新興デベロッパーが資金調達に成功している事例を紹介する。さらにオリジナルなタイトルがクラウドファンディング発で生まれ、すでにいくつかの成功例――資金調達の成功という意味ではなく、クリエーションとしての成功――があることを指摘したい。

2013年5月9日木曜日

Is Kickstarter just a hype? (PART1)

先日、開催された黒川文雄氏が主催する第八回目の「黒川塾」は、クラウドファンディングがテーマであった。詳細は私が取材した記事をご覧になっていただけると幸いだ。だが、国内4社のクラウドファンディング事業者が一堂に会した貴重な機会ではあったが、そこまで突っ込んだ議論は行われず、やはり日本でクラウドファンディングが根付くにはまだまだ時間が必要だと感じた。

私はこの他にも国内で開催されたクラウドファンディング関係のイベントには足を運び、コンテンツ産業におけるこの手法に対しては高い関心を抱いている。そして、Kickstarterを中心として海外で盛り上がっているこの現象と、日本の現状の温度差に少なからずフラストレーションを抱いている。

しかしながら、このムーブメントに遅参することは必ずしも悪いことではない。というのも、昨今のクラウドファンディングの盛り上がりは勢いがあるものの、それが健全な資金調達のモデルであるかどうかには懐疑的な意見も多いからである。

既にKickstarterで結構な額の出資を行なっている自分が言うのもなんだが、目標金額の到達を持って「プロジェクトの成功」と報じるメディアには疑問を感じる。「プロジェクトの成功」とは、プロダクトが出資者たちに届いて、概ね満足が得られた後に判明する事柄である。現状、「クラウドファンディングの成功事例」のほとんどが単なる資金調達の成功にとどまっており、そんなものは少なくとも消費者にとっての成功ではないのである。

個人的にはKickstarterがビデオゲームの資金調達のモデルとして決定的なものになるかどうかは、歴代の資金調達額5位となるティム・シェーファーによるアドベンチャーゲームのプロジェクトの完成によって決まるだろうと思っている。先日、公開された公式サイトによると正式タイトルが『Brocken Age』決まり、ベータ版のアクセス権を含めたプリオーダーが始まっている。

私個人としては、クラウドファンディングを通してインディペンデントなクリエイターを支援できるような環境が日本においても育つことを祈っている。そのためにもこれら海外の状況を批判的に検討することで、コンテンツ産業にとっての健全な環境を作っていくことが必要だろう。そこで今回と次回の本連載では、Kickstarterを中心として盛り上がるプロジェクトを反省的に検討した上で、クラウドファンディングの今後について考えてみたい。

批判的レビューが集中したOuya

物珍しいものにはとりあえず冷水をぶっかけるという人間は、いつの時代にも存在する。もちろん、そういった冷めた人間が果たす役割も人類の進歩にとって重要である。なので、Kickstarterのローンチ当初からその手法の危険性や一過性に警鐘を鳴らしてきた人がいたことは当然だし、実際にプロジェクトによって作られたプロダクトの品質が悪かったならば、歯に衣着せぬレビューは必要だろう。

なかでも、先ごろ出荷された「次世代コンソール」のOuyaの品質に対しては、批判的なレビューが集まった。メーカー側はこれらのレビューは、一般向けに販売される製品ではなく、出資者に届けられた先行バージョンであることを強調して、実際の製品の品質向上に努力すると言っている。

また、これらの批判的なレビューと共に、クラウドファンディングやKickstarterに対して批判を向ける人もいる。中でもフォーブス誌に掲載されたErik Kain氏の記事は「それ見たことか!」と言わんばかりの論調で「アウチッ!Kickstarterの支援者はOuyaの資金調達に手助けしただけではなく、彼らはそのシステムの誇大広告ジェネレーターでもあったのだ」と述べている。「アウチッ」のくだりは「Ouya」にかけた冗談だろうが、Kain氏は以前からOuyaを中心として盛り上がったKickstarterに関しては批判的な態度を取っていた。

Ouyaの初期ロットの品質の評判は、実際の出資者の声を聴く限りに確かに良くない。ただ、このことをもってKickstarterやクラウドファンディング自体を批判するならば、それは少々お門違いだろう。というのも、Ouya以前からクラウドファンディングで盛り上がるハードウェアやガジェットのプロジェクトには批判的な声が多かったのである。

2012年の夏に行われたOuyaのKickstarterのキャンペーン以前に、GizmodoのJoe Brown氏は“We're Done With Kickstarter"という記事の中で、Kickstarter発のガジェットにはもうほとほと飽きたと述べている。また2012年の9月には、TechCrunchでは「Kickstarterの陳腐化を示すiPhoneケーブル」が紹介されている。どちらの論旨も似たようなもので、クラウドファンディングでガジェットに出資することのバカらしさについて述べられている。

これらの記事からは、テック系記者にありがちな浪費自慢の匂いが強く、一般の人の感覚とはズレが大きいだろう。そもそも表現的、創造的なコンテンツと異なり、ガジェットやハードウェアに求められるのは利便性である。利便性を実現するのは、単純なアイデアだけではなく、材料や部品のサプライ、スムーズな流通など様々な条件を要する。

そのため、ガジェットやハードウェアの制作は小規模に行うのは困難である。製造業は規模の経済が強く働くため、同一の商品を大量生産するほうが品質も良くなるし、価格も良くなるのは当たり前だ。クラウドファンディングにおけるガジェットやハードウェアのプロジェクトの盛り上がりがハイプであったとしたならば、日本で概ね好評に迎えられたクリス・アンダーソンの著作『メイカーズ』もハイプだろう。

だから、一般人がクラウドファンディングでガジェットのプロジェクトに期待するのは間違っている。あくまでもニッチな需要に応えるためにニッチな製造を行なうのがクラウドファンディングのメリットである。その実用性の無さを誇りに思えるような人であるならば、出資すれば良いのだ。

この点からOuyaなどのゲームに関するハードウェアのプロジェクトを振り返ってみれば、その盛り上がりは少々、過剰になったことは否定できないだろう。本来ニッチであるべき製品がメインストリームなものとしてみなされたわけであるからだ。

似たような過程をAndroidベースのコントローラー型コンソールのGameStickが辿っている。Ouyaの酷評が続いたタイミングで、GameStickのリリースの時期が遅れることが報じられた。その理由として、メーカーは「クラウドファンディングで成功した結果の犠牲である」と語っている。要するに予想を超える受注数に対してサプライ側が対応できずに、出荷に遅れが出ているのだ。

断定はできないが、Ouyaの酷評がGameStickのメーカー側に影響を与えたと考えることもできる。クラウドファンディングで先に出資をしてくれた人に低品質な製品を与えるならば、出荷を遅らせてでも品質向上に尽力する方が良いので、GameStick側の判断は妥当だろう。

いずれにせよ、サプライや流通の問題から機能性や信頼性を求められるハードウェアでは、クラウドファンディングはそれほどメリットを持たない。物理的な製品は、出荷した後のアップデートでも時間や費用がかかることも無視できない。なので、私は物理的な製品に関してはクラウドファンディングの有効性には非常に懐疑的だ。

では、デジタルなコンテンツではどうだろうか?ゲームや映画、音楽ならば、クラウドファンディングは有効に機能するのか?次回はハードウェアやガジェットではなく、デジタルコンテンツにおけるクラウドファンディングやKickstarterについて考察したい。

2013年4月30日火曜日

電王戦に見る文化としてのゲームのあり方

先週の4月20日、「ついに人類がコンピュータに敗北したのか!」というセンセーショナルな話題が注目を集めた。映画の『ターミネーター』などの話ではない。知っている人も多いだろうが、将棋のプロ棋士とコンピュータが対決する「第2回電王戦」の話だ。

2011年1月14日に行われた第1回において、既に米長邦雄永世棋聖が「ボンクラーズ」というソフトに敗北を喫している。だが、今回は現役のプロ棋士と将棋ソフトによる団体戦が行われ、コンピュータ側が3勝1敗1引き分けという勝利を勝ち取り、いよいよ将棋の世界においてコンピュータの強さが明らかになってきたのである。

チェスではさらに古く、1997年にIBMのスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」が、現役のグランドマスターのガルリ・カスパロフに勝利している。ゲーム理論において「二人零和有限確定完全情報ゲーム」と分類される将棋やチェスなどは、究極的には計算力が優れている方が勝つわけで、プロ棋士の敗北は時間の問題であったと言える。

むしろこのような計算力が試されるゲームにおいて、人間であるプロ棋士がここまで粘り強く戦えることに、私は感動を覚えた。今回の電王戦の最終局のソフト「GPS将棋」などにいたっては679台のPCを並列化したというモンスターマシンであり、それらと互角に渡り合えるとされているプロ棋士たちの頭脳には心底畏怖を感じる。

他方、第三局で船江恒平五段を打ち負かしたツツカナはCore i7 3930Kが搭載されたデスクトップ1台であるわけで、力技のマシンパワーではなく、アルゴリズムにおいて秀でている。その特徴がプロの棋譜をもとに「人間に近い読み」を行なうこととされるのは、非常に興味深い。コンピュータ将棋にはいくつかのイノベーションがあったのだが、機械の強さを活かした全幅検索を行なうBonanza以降にこうしてまた「人間らしい思考」が見直されるあたりはAI研究の点でも面白い。

 ゲーム文化における競争と語りの重要性

子どもの頃に将棋に親しんだ経験のある私は、世紀の対戦である電王戦の結果について書きたいことはいろいろあるが、それは別の機会においておこう。もとより私のようなヘボ将棋指しが語るより、電王戦について書かれた優れた記事は数多くある。ぜひとも電王戦で将棋に興味を持った方は、これを期に「将棋を語る」ことの楽しみを覚えてほしい。

もちろん、報道されたニュースには「人間対コンピュータ」という安直なSF的設定で人々の興味を沸かせるものも多かった。しかしながら、プロの解説者はともかく、アマチュアの将棋指しが書いたブログの中にも興味深い分析やわかりやすい解説などが多くあり、「将棋」というゲームの文化としての厚みを改めて感じたのである。

今回話題にしたかったのはこの点だ。つまり、ゲーム文化における競争と解説の重要性である。「人間対コンピュータ」という効果はあったにしろ、今回の電王戦で将棋という「古いゲーム」にこれほどまでの人が引きつけられたのは驚いた。ニコニコ生放送の視聴者数は200万人を超えたという。

もちろん、将棋の世界には、新聞社がスポンサーとなるタイトル戦が根付いており、多くの人が対局の観戦を楽しんでいる。現在の将棋文化は戦後に日本将棋連盟が努力して育て上げたものであり、一朝一夕にできるものではない。ともあれ、こうした形で将棋は一つの「文化」としても、プロ棋士が存在する「ビジネス」としても成立しているわけである

ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』の中で提示した4類型の一つに「競争(アゴン)」がある通り、ゲーム文化にとって「競争」は重要な要素である。サッカーなどのスポーツは当然、チェスや将棋のようなボードゲーム、ポーカーやブリッジのようなカードゲームにもプロ選手や世界大会は存在する。プレイヤーやオーディエンスが多いから大会が成り立つのか、大会があるからオーディエンスが集まるのか分からないが、少なくとも「競争」は人々の興味を引き起こすのは間違いない。ビデオゲームの世界でもそれは変わらないだろう。

翻ってビデオゲームの世界に目を向けると、3月29日に行われた対談イベントがきっかけとなり、社会派ブロガーとして知られるちきりん氏が日本で一番有名なプロゲーマー(もしくは、世界で一番有名な日本のプロゲーマー)の梅原大吾氏に関する一連のエントリーを公開しており、話題を集めている。ストイックなプロゲーマーと人気の社会派ブロガーという意外な組み合わせが注目されているということはあるが、ゲームと教育、仕事と才能と努力など非常に様々な論点が議論されている。

ちきりん氏という影響力あるブロガーがビデオゲーム、それも対戦格闘ゲームに興味を持ってもらえるのは大歓迎である。今後も格闘ゲームの大会などに足を運んでもらえるとうれしい。だが、「仕事論」というテーマを超えて、ビデオゲームについて語れることは多くあると思う。

現在は、国内ではニコニコ動画やニコニコ生放送、海外ではYouTubeやTwitchTVといったサービスを通じて、ゲームストリーミング文化が徐々に根付きつつある。視聴覚メディアであるため当然だが、ビデオゲームはストリーミングを通じて、新しいオーディエンスやファンを根付かせるだろうが、ゲームの動画だけではなく、「分析」や「解説」ももっと読みたいと思うのだ。

そもそも、視聴数という点では 『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』での梅原とジャスティン・ウォンの伝説的な対戦はニコニコ動画とYouTubeを合わせると200万再生を超えている。だが、それを言えば今回の電王戦を実際に見ることなしに知った人がどれだけ多くいるのだろうか。私も実際にリアルタイムで楽しんだわけではなく、棋譜を通して対局を観戦したのだ。

動的な格闘ゲームを言語化するのはなかなか難しいが、電王戦に関する分析や解説にように、格闘ゲームなどの大会の分析や解説も読みたいと思うのだ。個人的には、プロのプレイヤーが存在するゲーム文化の基盤は、そういったたくさんの言説が重ね合わせられて成り立っていると思うのだ。スポンサーや大会が開催されるということも重要だが、この「語り」の部分こそゲームを文化として基礎づけるために決定的な役割を果たしている。なので、これからも日本にもより多くのゲームに関するブログが増えることを期待している。

2013年4月12日金曜日

ビデオゲームの多様性:フェミニズム、LGBT、インディーゲーム

前回に引き続き、今年のGDCを振り返ってみよう。

『The Walking Dead』(2012)や『極限脱出ADV 善人シボウデス』(2012)といった作品がGDCアワードで注目されたように、昨今ではアドベンチャー・ゲームというジャンルが再評価されている。そして、アドベンチャーの再評価と連動して、ビデオゲームにおける「ナラティブ」や「ストーリー」という問題が再検討されている。

「ルドロジー vs. ナラトロジー」といえば、これまでゲーム・スタディーズの中で幾度と無く議論されてきた問題だ。現在ではそのようなゲームにおける本質を問う議論は、どちらかと言えば鳴りを潜め、むしろ「ビデオゲームは何を語れるか」という関心に重きが置かれている感が強い。

実際、GDCでも「Game Narrative Summit」が開かれ、このテーマに強い関心を持つ人々が集まった。古くて新しいこのテーマだが、今回は「多様性」という観点からフェミニズムやLGBTの問題について考えてみよう。そして、この論点においてインディーゲームが果たす役割の大きさを最後に触れておきたい。

フェミニズムと多様性

フェミニズム――性差別の排除と女性の権利の拡張――は現代の我々の文明と社会にとって未だに重要な課題だ。文学、絵画、映画、マンガなどこれまであらゆる表現の様式に、フェミニズム的観点を取り入れる運動があった。比較的新しい表現であるビデオゲームにもその動きは少なからず存在するが、残念なことに日本ではほとんどまじめに論じられてはいない。

今回のGDCのGame Narrative Summitでも、クリエイティビティとビジネスの観点から、ゲーム業界は「女性」をもっと大切に扱うべきであるという講演が行われた。マイクロソフトのTom Abernathy氏によって行われたこの講演は、その主眼をビジネスに置いているとはいえ、我々が真剣に取り組むべき課題を言い当てている。(講演についてはこちらを参照:「【GDC 2013 Vol.71】ゲームの「クリエイティブ」と「ビジネス」に決定的に大事なのは"多様性"だ」。)

インターネット上のゲームの広告などを見るたびにうんざりすることの一つに、その性差別的/性的な表現があげられる。特に昨今ではモバイル・プラットフォームにおける性的表現は過激さを増しており、アイコン、バナー、キャッチコピーを問わず、露骨に(ほとんどは男性の)性的関心を煽っている。そのようなプロモーションによって確かに得るべき利益はあるだろう。だがビジネスとして見た場合でも、大半の女性ユーザーを切り捨てている。さらにゲームに単なる金銭的な価値以上を求めるものにとっても、そのような男性中心的なマーケットが持つ問題については真剣に考えていくべきだ。

また奥谷海人氏によれば、GDCで行われたIGDA公式パーティにおいて、「あまりにもセクシー過ぎる女性の衣装やダンサーの踊り方」に対して非難が向けられ、IGDAの「Women in Games」の理事を務めるBrenda Romero氏が抗議のために辞職したという。国際ゲーム開発者協会であるIGDAは、昨今のテーマを「多様性」と定めているため、このような過度に男性向けの催しに非難があつまるのは当然のことだと思う。日本のゲーム業界においても、しばしば、「ゲーム業界は男のものだ」というような誤った前提から、不要に露出が高いコンパニオンが登場する機会は多い。

このような現象は、従来のゲーム業界やユーザーが男性中心であることの証左であり、今後は真剣に検討していく必要がある。私は何も性的な表現を規制すべきだとは思わないが、男性と女性が対等に扱われるべき公の場において、そのような表現がなんら隔離されることなく行われることに対しては批判的である。実際、性的なコンテンツは魅力的なものである。だが、人を不快にさせることもあるということは忘れてはいけない。

LGBTに対するEAの取り組み

昨今では、単なる女性の権利の拡張としてフェミニズムだけではなく、性的マイノリティへの差別を是正する動きは、「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)というある程度のまとまりを持って論じられる。ゲームに関しても同様で、他の差別問題と同様、性的マイノリティについて今後は考えていく必要がある。

『シムシティ』(2013)でのサーバートラブル、モバイルゲームにおけるマイクロトランザクション(少額課金)の強化、バグの多さやサポートの不備など、様々な形で批判されることが多い巨大企業のエレクトロニック・アーツ(EA)。前回のコラムでも触れたとおり、昨今のインターネット上でのEAバッシングはいささか行き過ぎたものだ。しかし、少なくともLGBTなどの性的マイノリティへの配慮という点に関しては、EAは先進的な企業だと言える。

有名な事例としては『Mass Effect3』(2012)における同性愛描写をめぐる問題である。SFの世界では、古くから文明間の違いやジェンダー・ロールをテーマにしたものは多い。Mass Effectシリーズにおいても、当初から主人公であるシェパード少佐の性別をプレイヤーは男性女性から選択でき、続編では女性の同性愛イベントが存在した。さらに『Mass Effect3』では、シェパード少佐の性別に関わらず、同性間のロマンスが選択可能になった。

もちろん、これらはデベロッパーであるBioWareが熱心に取り組んできたことである。同社のシナリオライターでありゲームデザイナーであるDavid Gadier氏は、今年のGDCにおいて、ゲーム業界はセックスやジェンダーといった問題を真剣に取り組み、女性や性的マイノリティに不快感を与えるべきではないという内容の講演を行なっている。Gaider氏もユーザーの嗜好やビジネス的な理由から、これらの提言を行なっているが、実際に単なる金銭的な問題ではない。ビデオゲームが「感情を表現するメディア」であるとするならば、女性は当然、性的マイノリティに向けた表現も認められるべきである。

ご存知の方は多いかもしれないが、『Mass Effect3』における同性愛描写は物議をかもし、数千通以上の抗議のメールがパブリッシャーであるEAに届いたという。だが、EAはこれらのゲイバッシング的な抗議に屈することなく、本作のLGBT要素を検閲することはないと、BioWareの方針を擁護している。

もちろん、このような抗議の中には「ポリティカル・コレクトネス」におもねる大企業が、ステレオタイプ的なゲイ表現(いわゆるToken gay guy)を挿入することへの違和感もあったであろう。しかしながら、RPGという表現において、プレイヤーがキャラクターに自分のアイデンティティを重ねることが自然である以上、レズビアンやゲイのロマンスが描かれない理由などない。そういった表現に拒否感があるプレイヤーは単に自身のヘテロのセクシャリティに無自覚なだけであるのだ。

さらに言えば、EAは今年の3月にゲームにおけるLGBTについて考えるカンファレンスを開催している。「Hate Is Not A Game」が合言葉である本イベントでは、ゲームシナリオやキャラクターにおける「正統な」LGBTのあり方や、ゲーム業界に従事するLGBT、ビデオゲームにおけるホモフォビアの起源といったことが討論される予定だったそうだ。これらの姿勢から鑑みるに、EAのLGBTに対する試みは単なるポーズにとどまらないものだと言える。

インディーゲームの果たす役割

最後に、これらの女性や性的マイノリティへの関わりという点で、インディーゲームが果たす役割について触れておこう。

産業としてのゲームがヘテロ男性向けの表現を行なってきたからといって、何もデベロッパーやパブリッシャーがマチズモに完全に侵されているわけではない(もちろん、そういった人も存在するだろうが)。基本的には市場の動向に合わせいった結果、そのような表現が大半を占めているのだ。逆に言えば、女性のためのゲーム、LGBTのためのゲームといった市場が存在すれば、彼女たちの嗜好にあった表現ももっと多く生まれるだろう。

実際に、インディーゲームの中には女性やLGBTをテーマにした作品は多い。大規模なAAAタイトルなどと異なり、ニッチな市場で立ち回れるインディーゲームにとって、そのようなテーマはより扱いやすいのである。

中でもAuntie Pixelanteの『Dys4ia』(2012)は、注目に値する作品である。作者であるAnna Anthropy氏は、本作でトランスジェンダーである自身の経験に基づいた「自伝的ゲーム」に挑戦した。ジェンダーの揺らぎやホルモン治療をミニゲームで表現しており、プレイヤーはAnthropy氏のパーソナルな感情をゲームによって体感することになる。本作はIndieGames The WeblogにおいてTop 10 Indie Games Of 2012 (+2!) に選出されるなど、昨今、注目を集めている。(無料のフラッシュゲームであるため、こちらで実際にプレイできる。)

ゲームプレイという観点からは特別に優れた作品ではない。また、彼女自身も本作が万人向けのゲームだとは考えないだろう。だが、むしろ彼女が求めているのは、ゲームというメディアが持つ広大な可能性と多様性の方だ。

デベロッパーであるとともにゲーム批評家でもある彼女は昨年、著作『Rise of The Videogame Zinesters』を上梓した。その中で彼女は、「他の人の人生を経験してみる」という点において、ゲームほど直接的なメディアはないと主張する。そして、本のサブタイトルにある通り、21世紀はあらゆる人がゲームというメディアで表現することが可能な時代であると述べる。

Anthropy氏の主張はラジカルなように思われるかもしれないが、その実、非常に素朴なものだ。レズビアンが恋人に断酒を説得するゲームがやりたくてもなかったから、自ら作ったというエピソードが示すように、彼女の主張はピュアなDIY精神から導き出されている。

テクノロジーの発展により現代では、「Zinesters」のように――自主制作、自主流通の雑誌である「Zine」を作ったり、流通させたりする人々のように、誰でもビデオゲームを制作が可能になりつつある。それは自分のためだけのゲームであっても良いし、友人に向けたものだけでも構わない。ビデオゲームはそういった表現も受け入れることが可能なメディアであるはずだ、というのが彼女の言わんとすることだ。

私はもともとパンク・ロックやインディー・ロックを愛好する人間だけに、彼女の言葉には素直に心打たれた。巨大なエンターテイメント産業としてのビデオゲームが今後も存続する一方で、ニッチな市場やパーソナルな表現としてのビデオゲームはますます増えていくだろう。そして、女性やLGBTを重視した表現は、そういったインディペンデントでパーソナルなビデオゲームから生まれてくるはずだ。今年のGDCで話題になった「ビデオゲームの多様性」とは、インディーの精神によってもっとも強く後押しされるものだろう。

2013年4月8日月曜日

国内外で論争を呼ぶF2Pというビジネスモデル

今年のGDCも無事終了。波乱が予想される2013年のゲーム業界がいよいよスタートした。毎度よろしく一介のフリーランスである私は、金銭的な理由からGDCに参加することはかなわず、国内外のメディアを通してその盛り上がりを感じていた。

スマートフォンを含めたプラットフォーム戦争、インディーゲームの盛り上がり、アドベンチャーゲームとナラティブの復権など様々なトピックがあった。だがその中でも、「Free to Play Design & Business Summit」というカンファレンスが行われたことは注目に値する。

スマートフォンを中心として「Free to Play(以下、F2P)」というビジネスモデルを採用するゲームは増えている。日本語では「基本プレイ無料」と訳すしかないこのモデルは、現在ではコンソール機やPCといったプラットフォームを問わず、魅力的なものになっている。

しかしながら、「F2Pのビジネスモデル」といっても実際には様々な課金やマネタイズの手段があり、一概に説明はできない。またこのビジネスモデルは現在でも進化の過程を辿っており、今後どのような展開が見込めるかは未だ予想できない。(F2Pの歴史や課金手段についてはこちらのブログエントリ「有料ゲーム危機の時代 Free to Play(基本プレイ無料)で収益化はできるか」が参考になる。)

また、ビジネスにおけるそのメリットやデメリットについても、日本国内と海外では考え方が異なる。日本においては、主に収益向上のためにF2Pが採用されてきた。ソーシャルゲームの圧倒的な成長率は、このモデルを抜きにして語れないほど重要であり、その一方で若年層の高額課金が社会問題として認識されている。

昨年の「コンプガチャ問題」で火がついたこの問題は、業界側が自主規制のための団体を設立することで、一旦落ち着いたかに思える。だが、現在でも消費者庁はソーシャルゲームに関するトラブルが多発していることを警告している。単なる多額課金だけではなく、不正利用やアカウント停止など、F2Pやオンラインゲーム特有の問題が多数警告されている。他方、未成年者の「高額利用・高額請求」に関する相談はピーク時に比べると減少傾向にあり、業界団体による月額利用金額の制限などの取組が一定の効果をあげていることも指摘したい。(消費者庁によるこちらのPDF資料が参考になる。「インターネット取引に係る 消費者トラブルの実態調査」。もっとも未成年者に関しては夏休みにあたる8月の相談件数が例外的に大きく、未成年者のソーシャルゲームの課金システムに関する問題は依然として考慮していく必要があるだろう。)

昨今では、海外でもスマートフォンでのIAP(アプリ内課金)やマイクロトランザクション(少額課金)が社会問題化してきている。例えば最近では、5歳の少年がiPadのF2Pのゲームで1500ポンドの課金を行い、両親がアップル側に払い戻しを請求したという事件が話題になった。

このような事例はあるものの、これまで海外でF2Pが採用される理由は、主に収益向上より、海賊版対策のためであった。昨年の6月にリリースされたMadfinger Gamesのスマートフォン向けFPS『Dead Trigger』は当初は99セントの有料アプリであったが、1ヶ月後に無料化した。当然、最初にゲームを買ったユーザーからは非難の声が巻き上がったが、Madfinger GamesはAndroidでは本ゲームのユーザーの8割以上が海賊版をプレイしていることを理由にこの無料化を正当化した

東アジアをのぞく海外では、そもそもF2Pはそれほど浸透しておらず、IAPやマイクロトランザクションに対する批判は多い。もちろん、ビジネス的な論理からスマートフォンを中心に徐々にF2Pの流れは浸透しつつあり、昨今ではEAやGameloftという大手パブリッシャーがF2Pを採用しつつある。特にEAは今後のすべてのモバイルゲームにマイクロトランザクションを採用するという方針を打ち出し、これが業界に波紋を呼んでいる。

従来のゲーマーやメディアはどちらかと言えば、IAPやマイクロトランザクションといった課金方法に対して批判的である。批判点は、企業の「金儲け主義」を非難したり、これらの課金方法がゲームに与える悪影響を論じたり、ゲームに勝つために課金するという倫理的問題を指摘したり多岐にわたる。非難する側もこれらの論点が明確に整理されているわけでもなく、パッケージゲーム時代のノスタルジーを含む感情的な意見も少なくない。

そのような「F2Pに対するバックラッシュ」について、「Gears of War」などで知られる著名なゲーム・デザイナーのクリフ・ブレジンスキーがブログで反論するという場面もあった。彼はインターネット上の過度な「EAに対するバッシング」を諌めながら、「ヒップスター」や「ブーメラン世代」と呼ばれる現代の若者がゲーム開発にどれだけお金がかかるのかを理解していないと主張する。そして、もしF2Pといったマネタイズ手法やそれを採用したゲームが嫌いならば、それ以外のマネタイズを採用するゲームに金を払えばいいのだと主張している。

筆者はこのような現状のF2P化の流れを「ユーザーが望んでいるから起こっている」という意見には与しないが、いずれにせよ業界側、ユーザー側を問わず、F2Pによってゲーム文化がどう変化するかについては真剣に検討する必要がある。業界やメディアはF2Pというビジネスモデルに関するメリットだけを主張するのではなく、それが持つデメリットに関してもユーザーに対して周知すると共に、積極的に議論していく必要があるように思える。

このようにF2PやIAP、マイクロトランザクションに関しては、国内外を問わず今後も議論されていくことになるだろう。産業側は主に都合の良いマネタイズ手段としてF2Pを考えがちである。だが、実際問題、F2Pはただのビジネスモデルではない。それは部分的にゲームの内容やシステムに干渉し、プレイヤー側のエクスペリエンスにも影響を与える。

そのため、収益向上や子どもの高額課金というビジネス側のメリット/デメリットだけではなく、ゲームにおけるF2Pというビジネスモデルに対する美学的な考察も必要だ。ここで言う「美学」とは、主にユーザー視点で見た時のF2Pが持っている独特の経験のあり方の考察である。「なぜコアゲーマーはアイテム課金を嫌うのか?」、「F2Pとゲームの作品性」、「F2Pが破壊するゲームのマジックサークル」など、ビジネス以外の観点からも興味深い問題が数多く潜んでいる。

今回はそれらの問いを考察する余裕がなかった。だが、本コラムでは今後、「美学的観点からみたF2P」について折を見て触れて行きたいと思う。なお、1人のユーザーの観点から見たF2Pの持つ経験の問題点に関しては、イギリス人ジャーナリストのジェイソン・ブルックスの「基本プレイ無料と少額決済は悪の雑草なのか?」という記事が参考になる。記事の中で彼が述べる「ベストバイで60ドル出して、家に帰って明かりを消してサバイバルアクションに備えようってのに、クレジットカードを見るためにもっかい明かりをつけなきゃいけないってのはやっぱりおかしいよ」という意見は、一旦クレジットカードの登録を行えば、ワンクリックで可能なアプリ内課金の現状を正しく反映していないだろう。だが、彼が言わんとしていることは十分に伝わる。同じようなゲーマー的感性から、私もF2Pが持ついわゆる「マジックサークル」の破壊能力に心を痛め、「ゲーム内で現実の通貨を消費する行為」に心穏やかにしていられないのである。

2013年3月28日木曜日

クリエイター発掘というSCEのコンテンツ戦略の過去と未来(PART2)

PlayStation Meeting 2013に引き続き、3月25日から行われているGDCでもPS4に関する情報がリリースされている。ハードウェア関係で大きなニュースはないが、やはりSCEがインディーゲームをコンテンツとして重要視しているのは間違いない。個人的に一番驚いたのは、PlayStation Meeting 2013でJonathan Blow氏の『The Witness』が、コンソール機の中ではPS4の独占販売となったというニュースだ。『Braid』という傑作を生み出し、インディーゲームの世界で尊敬を集めるBlow氏にSCEがいったいいくらの金額を提示したのかは分からないが、ともかくインディーゲームに尽力を注ぐ姿勢自体はかなり本気なのだろう。

前回のコラムで触れたBitsummitをめぐる「日本のインディーゲーム」の動向、ソニーの取締役会議長ハワード・ストリンガー氏の退任、任天堂のWiiUの売上不振など、ゲーム業界の動向はまだまだ波乱に満ちている。予測不可能である業界だからこそ、過去を冷静に見つめ、将来を見通す必要がある。そこで今回は予定どおり、SCEの新人発掘路線について振り返ってみたいと思う。

クリエイターに焦点を当てたプロモーション

PlayStationが誕生する以前の日本のコンソールゲーム業界では、クリエイターの名前の多くは伏されていた。その理由は他説あるが、クリエイターの引き抜きを嫌った会社が個人名を表に出さなかったというのが通説だ。理由はとにかく、そのような業界の慣習の中、新規参入者であったSCEはクリエイターに大きく焦点を当てたプロモーションを行なってきたことはよく知られている。

昨年の2月に行われた『ニコニコ生放送』内の丸山茂雄氏の公式チャンネル『mf247』の番組では、PlayStationの生みの親である久夛良木健氏がこの辺りのことに触れている。映画が趣味である久夛良木氏は、日本のゲーム業界では詳細なスタッフクレジットを表記する慣習がなかったことに驚いたそうだ。そのため、SCEは取扱説明書にスタッフクレジットを表記したり、PlayStation Awardsと呼ばれるSCEの行なうイベントでクリエイターを大体的に表彰したり、クリエイターに焦点を当てたプロモーションを行なってきた。

これらの戦略が音楽業界の経験者である丸山氏を中心としたスタッフで進められたことはまず間違いない。昨今、メディアに登場する機会が多くなった丸山氏は謙遜しつつ、何も特別なことをしてきたわけではないと強調する。だが一方で「ミュージシャンは六本木で女の子に名前を出すとキャーキャー言われるが、ゲームクリエイターは言われない。君たち(クリエイター)も女の子たちにモテたくはないのか」とデベロッパーをプラットフォームに勧誘してきたことも認めている。

この点に関しては、私が取材した黒川文雄氏が開催した「黒川塾(弐)」の記事も参照していただきたい。この中で黒川氏が述べているように、PlayStation事業におけるSCEの取り組みは、単なるハードウェアの開発やソフトウェアの制作・流通だけではなく、クリエイター発掘という点においても特筆すべきものであった。実際に初期のPlayStationのクリエイターの中には、『パラッパラッパー』のキャラクターデザインを務めたロドニー・グリーンブラットなど、ゲームというメディア以外でも話題になる人物が存在した。

いずれにせよ、PlayStation事業でゲーム産業に乗り出したSCEが、これまでの業界慣習にとらわれず、映画や音楽といった既存コンテンツ産業におけるノウハウをゲーム産業でも活かしたことは間違いない。その中でも新人発掘として行った「ゲームやろうぜ!」と「PlayStation C.A.M.P!」というオーディションモデルの戦略は、今後のPS4の行き先を見つめる上でも、「日本のインディーゲーム」を考える上でも触れておくべきものである。

「ゲームやろうぜ!」から「PlayStation C.A.M.P!」:新人発掘のオーディションモデル

ソニーグループ初のコンテンツ部門であるCBS・ソニーが、日本のレコード会社としてはかなり若く、コンテンツ供給のために、新人発掘路線を大きく打ち出したことは前回のコラムでも触れた。PlayStationによってゲーム業界に参入したSCEにとっても、状況はまったく同じだった。既存のデベロッパーやパブリッシャーだけでは、コンテンツ供給が間に合わない以上、ゲームにおいても新人発掘を行なう必要があったのだ。

もちろん、PlayStation事業の成功の大部分は、「ファイナルファンタジーシリーズ」などの大型タイトルを呼び込めたことによる。だがそのような既存の会社の誘い込みを行なうだけではなく、SCEがかなり積極的に新人発掘を行なってきたことはもっと評価されるべきだろう。

具体的にはまず、1995年から始まった「ゲームやろうぜ!」と呼ばれるゲームクリエイター発掘オーディションである。「ネットやろうぜ!」でPlayStationの民生用の開発キットを販売するという方向性とは別に、SCEは既存のゲーム産業にはいなかったような人材をこのオーディションによって発掘していった。「XIシリーズ」のシフト、「どこでもいっしょシリーズ」のボンバーエクスプス(現ビサイド)など、その後のPlayStationのコンテンツイメージを決定づける作品が本オーディションから登場している。

この「ゲームやろうぜ!」は1999年に一旦中止となる。だが2005年に「ゲームやろうぜ!2006」として復活。藤木淳氏の『無限回廊』、アクワイアの『勇者のくせになまいきだ。』など独創的なゲームが生まれている。さらに2008年には「PlayStation C.A.M.P!」と名前を変えつつも、新人発掘路線は行なってきた。

「PlayStation C.A.M.P!」からは、「ゲームやろうぜ!」時代から引き続いてアクワイアの『100万トンのバラバラ』、昨年、話題を集めたクリスピーズの『TOKYO JUNGLE』、発売日は未定だが魅力的な世界観を持った『rain』などの企画が生まれてきている。

これらの作品をリリースしたクリエイターの中には、シフトやアクワイア、クリスピーズなどのように法人化したデベロッパーも存在する。SCEのオーディションというパスを踏んでいるとはいえ、今から見なおせば「日本のインディーゲーム」とも呼べなくない。PS4によってSCEが大きくインディーゲームに関心を移しているのは、何も今に始まったことではないのだ。CBS・ソニー時代のノウハウをゲーム産業で活かすことで、SCEは新人発掘路線をオーディションという方法で行なってきたのは事実である。

オーディションモデルの限界

しかしながら、今振り返ってみれば、このオーディションモデルによる新人発掘という戦略にはデメリットや弊害も存在したように思える。

前回のコラムでも触れたように「ネットやろうぜ!」、「ゲームやろうぜ!」という企画のタイトルからして、これらが80年代の日本のバンドブーム期の手法をゲームに当てはめているのは明確だ。オーディションによる「才能の一本釣り」という戦略は、確かに才能のある若手を発見する可能性があるものの、その後のプロモーションや活動をSCE自身が引き受ける必要がある。要するに、バンドブーム期のオーディションと同じく、クリエイターはSCEという「メジャーレーベル」と契約することになり、彼らが本来持っていた才能や個性を存分に発揮しづらくなるのだ。

もちろん、インディペンデントなゲーム開発の資金調達は非常に困難だ。クラウドファンディングなどの手法がなかった時代には、コンソール向けに個人や小規模の集団がゲームを提供するなどということは、ほとんど不可能であった。そのため、「ゲームやろうぜ!」や「PlayStation C.A.M.P!」はそういったコンテンツ産業の統合期においては一定の役割を果たし、確かに素晴らしい作品と才能を生み出してきた。

しかしながら、これらのオーディションから登場したゲームタイトルやゲームクリエイターのことを一般のユーザーがどれほど知っているだろうか?少なくとも私は、業界関係者以外で「ゲームやろうぜ!」や「PlayStation C.A.M.P!」のことを知る人間と会ったことはない。さらに言うならば、「どこでもいっしょシリーズ」で人気を集めた猫のキャラクター「井上トロ」はSCEのマスコットキャラクターであり、海外では「Sony Cat」と呼ばれている。これらのオーディションから出発した作品、世界観、キャラクターの多くは、オリジナルのクリエイターの文脈を希釈化することで俗に言う「PlayStationワールド」に属するものとして認識されているのだ。

そもそもこれらのオーディション企画は、クリエイター発掘という側面を強調するあまり、ユーザーの認知度を軽視しがちである。実際問題として1人のユーザーが「PlayStation C.A.M.P!」の情報を得ようとしても、その公式ウェブサイトはあまりにも貧相である。またインディーゲームがこれだけ話題を集める昨今では、「オーディションでメジャーな会社と契約する」というキャリアパス自体がそれほどクールには思えないという欠点もある。いずれにせよ、SCEはこれまでの新人発掘戦略で確かに多くの才能と作品を見出してきたが、プロモーションの点においてそれらを活かしきっていないように思えるのだ。

コンテンツ産業におけるクリエイター自律性の難しさ

SCEは「ゲームやろうぜ!」や「PlayStation C.A.M.P!」での新人発掘を行なう一方、そのプロモーションにおいてはそれほどクリエイターに焦点を当ててこなかったように思える。これはPlayStation事業の初期において、丸山氏が中心となって「クリエイターへのライトアップ戦略」を取ってきたことどこか不整合を感じさせる。憶測の域を出ないが、もしかして世間に「ゲームクリエイター」という職業を浸透させるきっかけとなった飯野賢治氏の影響がそこにはあるのではないかと、個人的には考えている。

先日逝去された飯野氏は、丸山氏などが後押した「クリエイターへのライトアップ戦略」のまさに台風の目であった。テレビや出版などで派手に露出をしていた彼の文章を、当時はロック少年であった自分が雑誌で読んでいたことを記憶している。音楽にしろゲームにしろ「クリエイターの自律性を高める」という戦略は、クリエーションにおいてもプロモーションにおいても非常に重要な施策である。しかしながら、その代償として企業やプラットフォームによる管理が届かないというデメリットも存在する。

ゲームに限らず、音楽や映画などのコンテンツ産業は、クリエイターの自律性に関するアンビバレントな態度を持つ。常に新しく、常に斬新なコンテンツを提供するためには、マーケットの動向を伺うのではなく、感性の高いクリエイターたちに制作を任せる方が良い。だが、そこで生み出されるコンテンツの品質を予想することも、クリエイターの行動を管理することもかなり困難である。

飯野賢治氏が行った『エネミー・ゼロ』の前代未聞のプロモーションも、そのようなクリエイターの自律性を高めた結果であっただろう。それによって、SCEはオーディションによる新人発掘戦略を行いながらも、クリエイターの自律性を管理する方向にシフトしていったのではないかというのが私の仮説である。

ある意味では扱いづらいこの「クリエイターの自律性」は、インディーゲームが注目される昨今、ゲーム産業がより繊細に検討する必要があるトピックだ。キース・ニーガスやジェイソン・トインビーといった研究者たちが、音楽産業におけるクリエイターや従業員の複雑な振る舞い――アンチ商業主義的な態度を取ったり、ユーザーと同じ地平で考えたり、起業家意識を持ったり――を明らかにしてきた。管見の限り、ゲーム産業従事者の行動規範や価値観に関する研究は未だない。それはSCEだけではなく、ゲーム産業にとっての今後の重要な課題である。

2013年3月18日月曜日

革新性と多様性:BitSummitを振り返りつつ思うインディーゲームのあり方

レコード会社時代のソニーの「新人発掘路線」を振り返った前回では、SCEのコンテンツ戦略について書くと述べたが、急遽、テーマを変更させていただきたいと思う。「鉄は熱いうちに打て」という脳内のゴーストのささやきに耳を傾け、今回は先日、3月9日に行われたBitSummitを振り返りつつ、今後のインディーゲームのあり方について個人的な意見を述べたいと思う。

改めて説明は不要かもしれないが、BitSummitは日本のインディペンデントな開発者を世界に紹介するために開かれたイベントだ。主催者のジェームズ・ミルキー氏はQ-Games所属のプロデューサーかつジャーナリスト。イベントの内容については、既に各メディアから報道されているため、ここでは繰り返さない。だが、ミルキー氏がインタビューで応えているように、このイベントの開催趣旨は、海外メディアが「日本のゲーム業界というのはもう終った」と盛んに報道していたことへのカウンターとしての意味合いが強かったようだ。

結果として、海外メディアやパブリッシャーに向けた日本のインディーゲーム・ショーケースといった雰囲気が強く、我々国内のゲーマーは蚊帳の外に置かれた感がある。

それでも当初の予想をはるかに超えて、BitSummitの記事は国内でも多くリリースされた。だが、それらの多くはSteamを擁するValveや有名クリエイターの基調講演を扱ったものが多く、インディペンデントな開発者に焦点を当てた記事は相対的に少なかった。

正直に申し上げると、国内メディアによるインディーゲームの扱いは低すぎる。それにBitSummitのような海外主導のイベントが開催されて初めて、国内のインディーゲームを話題にするような姿勢については、猛省を促したい。そもそもBitSummit以前に、国内にはコミックマーケットなどの同人ゲーム頒布会やIGDAが主催する東京ロケテゲームショウなど、インディーゲームやクリエイターに関わるイベントがあったではないか!(ただ、いつもは海外記事の翻訳が多いGame*Sparkだが、今回は精力的に取材を行なっていた点は高く評価したい。)

もちろん、BitSummitの開催とその報道は、一般の人々が「日本のインディーゲーム」に触れるきっかけを与えたという意味では大きい。これらの記事を通じて、個々のゲームタイトルはともかく、「日本のインディーゲーム」という存在を知ってもらうだけでも、今後のシーンの活性化にはつながるだろう。

またイベントの報道が広がるとともに、日本のクリエイターやプレイヤーの間から「インディーゲームとは何か?」、「同人ゲームやフリーゲームと何が違うのか?」といった議論が顔をのぞかせてきた。この問い自体は、これまでも常に問われてきたことであり、私自身も以前書いてきたことでもある。(詳細は以下の記事を読んでいただきたい。「海外で巻き起こる個人制作、小規模開発者のムーブメント」、「日本のインディーゲームの未来」。)

ここでは簡単に「インディー」という言葉の歴史を振り返ることで、今後の「日本のインディーゲーム」のあり方について個人的な意見を述べたいと思う。

インディーとインディーズ:言葉と概念の歴史

まず日本国内の特殊な事情として、「インディー」と「インディーズ」という表記ブレの問題がある。BitSummitの報道においても両者が混在している。

もちろん、呼称は単なる言葉であって、それほど固執する必要はないだろう。「インディー」であれ、「インディーズ」であれ概念としてある程度、適切に理解されていれば、コミュニケーションに齟齬が生じることは少ない。とはいえ、文脈的に両者の言葉のニュアンスは異なっているため、馴染みがない人に誤解を生じさせるだろう。それぞれに固有の歴史的文脈があるため、ここで簡単に確認しておきたい。

まず「インディー」とは、英語の形容詞「independent」の略であり、しばしば「独立系」などと訳される。その意味するところは、大手の資本や組織に寄らない文化の制作や流通のあり方を指す。もともと、音楽や映画業界で使われてきた用語であり、その歴史はレコード産業、映画産業の始まりと同じくらい古いものである。

しかしながら、現在の欧米圏で使用される「indie」という形容詞は、単なる制作における独立性といった形式的意味以上の含みを持つ。70年代後半に起こったパンクムーブメントは、現在に至るまでこの「indie」という形容詞にイデオロギー的影響を与え続けてきた。そのイデオロギーとは、反資本主義であったり、個人主義であったり、反メジャーであったり様々だが、やはり一番はDIY精神だろう。(公平のために、パンク・サブカルチャーの中にはネオ・ナチズムやハレ・クリシュナ、キリスト教原理主義といった良心的なパンクスが心を痛めるような種類があることも付け加えておこう。)

DIY精神とは、言うまでもなく「Do It Yourself!」の略称であり、「independent」の語義と同じく、文化における独立性と自律性を肯定する態度である。パンクに影響を受けた90年代のロックの多くは、「オルタナティブ・ロック」としてメインストリームに浮上していった。だが2000年代以降、伝統的なDIY精神を守りつつ、インターネットなどの新たなテクノロジーを利用する新世代の多くのアーティストたちは、「インディー」という名称のもとに薄く広がるシーンを築き上げてきたのだ。

この流れにある「インディー」には、ロック・ミュージックだけではなく、映画、雑誌、コミック、ファッション、プログラミング、そしてゲームが内包される。さらに、そこにはDIY精神だけではなく、ハッカー/ギーク的な価値観――フリー、オープン、シェア――といったものがブレンドされている。(元をたどれば、パンク文化もハッカー文化も60年代のカウンターカルチャーに行き着くわけで、これらは生き別れ兄弟の再開と言えるのだが。)

それに対して、「インディーズ」とは和製英語であり、英語で「Indies」と書くと「東インド諸島」を指すことになる。日本では主に音楽業界で大手レコード会社に属さないレーベルに冠される言葉である。この意味での「インディーズ・レコード」の元祖は、1967年のフォーク・クルセダーズの『ハレンチ』である。ただしこの段階の「インディーズ」という言葉は、主に「自主制作」や「自主流通」といった意味が強かった。

現代まで残っている「インディーズ」のニュアンスは、80年代頃に形成された。70年代後半からのグローバルなパンクロックのムーブメントが日本にも影響を与え、多くのロックバンドが誕生した。その流れが80年代後半に大衆的な注目を浴び、雑誌やテレビ番組などで「インディーズ」として紹介され始めたのが決定的だった。

80年代後半のインディーズ・バンドはハードコア・パンクからゴス・ロック、テクノポップなどかなり多様なものであった。しかし、90年代には日本ローカルな音楽ジャンル「ヴィジュアル系」が人気を博してきた結果、「インディーズ」という言葉のイメージがヴィジュアル系に引き寄せられることになっていった。ヴィジュアル系のロックバンドは確かに、インディーズ出身が多くいるが、海外の「インディー」という言葉に含まれるDIY精神や反資本主義といった価値観はあまり強く打ち出していない。そのため、日本の音楽業界で「インディーズ」という言葉は「メジャー予備軍」的な扱いを受けることも珍しくない。こういった事情もあり、海外志向のロックバンドは、徐々に「インディーズ」という言葉を避けるようになっていった。

現在、80年代からの日本の音楽に親しんだ人は「インディーズ」という言葉を使用する傾向にあるが、海外の音楽シーンに共感を覚える人はこの言葉をあまり使用したがらない。一方ゲームでは、2009年から始まった「Xbox Live インディーズゲーム」が「インディーズ」という形容詞を冠した結果、「インディーズ」という言葉が普及してしまった。日本ローカルな文脈を避け、グローバルなシーンを強調したい音楽ファンにとって、「インディーズ」という言葉は唾棄すべきとまでは言わないが、少々居心地の悪い響きを持っているのだ。

もちろん、呼称は呼称であって、それほど固執する必要はない。パンクロックが好きな私個人は「インディーゲーム」という言葉の方を好むのだが、「インディーズゲーム」という言葉が日本で一定、定着してしまったならば、それ自体には文句はない。しかし、言葉の歴史を知ることは、それで名指される概念の持つ価値観を理解することにつながる。そしてインディーズゲームであれ、インディーズゲームであれ、重要なのはその概念と価値観のあり方なのだ。

欧米に比べると音楽業界とゲーム業界(さらに映画業界)の隔たりが大きい日本では、以上のような事情もともない文化横断的な「インディー」という価値観はそれほど浸透していない。それに何も海外の価値観をそのまま輸入することだけが、選択肢ではない。今の日本のゲーム業界に必要なことは、海外のインディーゲーム・シーンの良いところ、悪いところ咀嚼した上で、より良い「インディーゲーム」の概念と価値観を創りあげることだ。

革新性と多様性

ここから先に申し上げることは、多分に私の個人的な意見によるものだ。私は何もインディーゲームのあり方と価値観を定義したいのではなく、ひとつの提案をしたいのである。

「independent」の語義に忠実にあるならば、インディーゲームとは何かしらの独立性や自律性を持っている必要がある。それは歴史的に言えばDIY精神であり、文化をクリエイター自らの手で発信すると共に、コントロールすることに重きを置く。この点からインディーゲームにとって重要なポイントは、革新性と多様性にあると、私は考えている。

革新性とは、オリジナリティであり、イノベーティブであり、クリエイティブであることだ。どんな文化においても、規範や慣習を突き破った表現が文化を成熟させ、発展させてきた。ゲームも同様だ。

もちろん、インディーゲームだけが革新的であるわけではない。従来のゲーム産業が作り上げてきた作品の中にも革新的なものは多数ある。しかしながら、産業の成熟とともにゲーム会社は統合され、大企業化していく。「イノベーションのジレンマ」として知られるように、巨大企業はリスク回避という合理的な選択を繰り返す結果、革新的なプロダクトへの参入を避け、結果として新規需要を取りこぼす。

このようなコンテンツ産業の統合化の後には、クリエーションを行なう部門が小規模化、流動化することが知られている。そのような小規模なスタジオは、ロックバンドがレコード会社から離れるように、大手パブリッシャーやデベロッパーから分離して、大企業が手を出せない革新性の高い作品をリリースすることになるだろう。また統合化の結果、成立するオープンなプラットフォームでは、新規参入者が増え、彼らも革新性の高いコンテンツを提供できるだろう。(この流れについては、以下の論文が詳しい。樺島榮一郎「個人制作コンテンツの興隆とコンテンツ産業の進化理論」。)

これらの小規模の開発者たちが提供する革新的なコンテンツは「インディーゲーム」の名の下にあるだろう。彼らは言うならば、ポップカルチャーにおけるアヴァンギャルドであり、常に挑戦的な表現をゲームという領域で行なうのだ。もちろん、ハイリスクな挑戦であるため、こういったプロジェクトには大企業や公的資金の援助が必要かもしれない。だが、たとえ外部資本の提供を受けようとも、クリエイターの表現の独立性が守られるなら、それらは「インディーゲーム」と呼びうるものだと思う。

他方、多様性とは、インディーゲームは様々な形体を含みうるということである。ゲーム産業が成熟化すると、革新性と同様に多様性も失われる。リスクを恐れる大企業は人気タイトルの続編やフランチャイズに資金を注ぎ、ゲームのジャンルも画一化していく傾向にある。それに対して、小規模なデベロッパーは革新的なゲームに挑戦すると共に、既に流行が終わったとされるニッチジャンルにもタイトルを提供していくことができる。

しかしながら、多様性は何もゲームの中身に限ったことではない。プロジェクトの企画、運営、流通、プロモーション、あらゆる面でインディーゲームは既存のゲーム産業が持たない多様性を持ちうるし、持つことが許されるべきだ。

なのでPCで公開して、SteamのGreenlightを通過するということだけが、インディーゲームの成功モデルになって欲しくはない。そもそもインディーとは独立性の美学であり、それらのゲームの中身とは別の部分にも開発者の自由度があってもよいし、あるべきだろう。だが逆にインディーゲームは既存のプラットフォームやシステムを利用せず、すべてをゼロからこなすべきかというそうではない。

Steamであれ、Desuraであれ、Playismであれ、開発者は好みのディストリビューターを利用すればよい。コンソールに展開するのだって1つの選択肢だ。自分たちのゲームを実現するために、パブリッシャーと手を組むことも自由であるべきだろう。もちろん、コミックマーケットも立派な流通の場であり、プレイヤーとクリエイターが直に接することができる貴重なプロモーション手段の一つだ。

要するに重要なのは、「多様性の中で成り立つ選択の自由」なのだ。これは流通、販売、プロモーションすべてに言えることだろう。Kickstarterでキャンペーンを行なう、Greenlightに応募する、コミックマーケットにサークル参加する、ネット上で無料で公開する。どのようなパスを踏んでも、「多様性の中で成り立つ選択の自由」さえ守られるのであれば、「インディーゲーム」と呼んでいきたいものである。

まとめると、ゲームの内容とその発表の仕方、両者の点で革新性と多様性が良しとされる価値観。それが「インディーゲーム」の概念を形作っていくことが、私の理想である。そして、インディーゲームを支えるシーンやメディアはそのような革新性と多様性の自由を可能にする環境を提供していくべきなのではないだろうか。

2013年3月8日金曜日

クリエイター発掘というSCEのコンテンツ戦略の過去と未来(PART1)

2月20日、ニューヨークで行われたPlayStation Meeting 2013においてPlayStation4の発表が行われるやいなや、日本では飯野賢治氏の訃報が流れた。PlayStation向けに開発を進めていた『エネミー・ゼロ』を、SCE主催のイベントでセガサターン向けに変更するという前代未聞のプロモーションをした飯野氏だけあって、何かの因縁を感じずにはいられない。

ただこのようなクリエイターのスタンドプレイが発生したことは、ソニーグループのコンテンツ戦略において、ある程度想定された自体でもあった。今回、PlayStation4の発表と飯野氏の逝去を契機として、ソニーグループのコンテンツ戦略のあり方について二回に渡って振り返ってみよう。

レコード会社から始まったSONYのコンテンツ事業

SCEではなく「ソニーグループのコンテンツ戦略」と書いたのには理由がある。ソニーは本来、AV機器メーカーであり、世界規模の大手電機メーカーである。オーディオ機器メーカーとして出発したソニーが、最初に手を出したコンテンツ事業は当然、レコード会社であった。1968年にCBS・ソニーレコード株式会社(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)として設立された音楽部門は、戦後初の日本のレコード会社であり、レコード会社としてはかなり若い。

米CBSとの合弁会社であったCBSソニーは、コロンビア、ビクター、ポリドール、キング、テイチクといった戦中を生き残った日本のレコード会社と比較すると、音楽制作事業のノウハウはほとんどなかったと言ってよい。そのため、米CBSの原盤を利用する形で日本市場で主に洋楽を売り込んでいった。CBSソニーの初のヒットレコードとして知られるのは、1968年にリリースされたサイモン&ガーファンクルによる映画『卒業』のサウンドトラックだ。

70年代の日本市場における洋楽ロックのヒットの裏にはCBSソニーがあった。特にエアロスミス、チープ・トリック、クラッシュといったロックバンドを、積極的に国内に売り込んだ洋楽ディレクターの野中規雄氏の活躍は語り継がれている。アメリカでは当時、無名であったロックバンド、チープ・トリックを日本の武道館でライブ・レコーディングを行い、アルバム化した『チープ・トリックat武道館』は全世界でヒットした。さらに海外のアーティストに「ブドーカン」の存在を知らしめた。

つまり、当時のCBSソニーの洋楽ディレクターは、単に米CBSの音楽コンテンツを輸入するだけに留まらず、海外コンテンツの「ローカライズ」や「カルチャライズ」を行なっていたといえよう。これら野中氏の活躍は和久井光司氏による評伝『「at武道館」をつくった男』に詳しく描かれている。海外コンテンツの国内輸入といった普遍的な課題の参考になるため、興味を持った方はぜひとも読んでみてほしい。

一方、邦楽部門の最初のリリースはフォーリーブスの両A面シングル『オリビアの調べ/壁のむこうに』。ジャニーズ事務所に所属しするグループサウンズのフォーリーブスは、アイドル的な人気が高かった。また洋楽レーベルであるEPICソニーから浅田美代子や麻生よう子といった新人をヒットさせ、他のレコード会社に先駆けてアイドル路線というジャンルを確立した。

この邦楽部門の躍進は、レコード会社として自ら新人発掘オーディションを行なうという美談として語られることが多い。だが、EPICソニーの設立者であり、PlayStationの開発にも大きく関わった丸山茂雄氏に言わせれば、まだ若い会社であったCBSソニーは既存のアーティストやミュージシャンと契約できなかったことが、何よりもの理由だと話している。結果として、歌手としてのキャリアが浅い新人を発掘してデビューさせるという路線が採用されたのだ。浅田美代子に至っては、そのセールス的な成功にも関わらず、歌唱力は低いとバカにされていた。

だがこのEPICソニーの新人発掘路線は、80年代に実を結び、その後の日本の音楽に大きな功績を残した。「ロックの丸さん」として知られる丸山茂雄氏は、THE MODS、佐野元春、TMN、DREAMS COME TRUEといった数々の才能のあるアーティストを輩出。新人発掘と自社原盤の制作に力を入れ、「洋楽っぽい日本の音楽」という現在のJ-POPの流れを生み出す源流となっている。

PlayStationにおける新人発掘路線

CBSソニーは91年にソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)と社名を変更、93年にソニーの技術者と共に家庭用ゲーム機とそのコンテンツの開発・販売を行うソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)を設立した。これらPlayStation開発の経緯やエピソードはよく知られたものであるため、ここでは詳述しない。

着目すべき点は、このPlayStation計画にゴーサインを出したのがCBSソニーの初代社長であった大賀典雄氏であり、SMEの会長であった小澤敏雄氏がSCEの社長を務め、EPICソニーで新人アーティストを輩出してきた丸山茂雄氏が副社長を務めたことだ。PlayStationと言えば、技術者から経営者へと転身した久夛良木健氏の功績が大きく語られるが、SCEの設立時のメンバーの多くは音楽コンテンツ事業の出身者でもあったのだ。

よって、PlayStation事業においてもソニーの音楽コンテンツ事業が持っていた「新人発掘路線」は強く打ち出されている。具体的には、アマチュアからクリエイターを発掘するため、一般向けの開発環境「ネットやろうぜ!」を販売、さらにプログラミングなどができないクリエイターにも「ゲームやろうぜ!」というオーディションを企画していったのである。

「ネットやろうぜ!」、「ゲームやろうぜ!」という企画のタイトルが、日本のバンドブームを盛り上げた音楽雑誌「バンドやろうぜ」のもじりであることは明白だ。70年代後半からの日本のバンドブームでは、オーディションを勝ち抜いたバンドやアーティストがレコード会社と契約するというモデルが成立していた。このようなオーディションモデルは、単なるコンテンツ供給手段だけではなく、「普通の若者でもアーティストやクリエイターになれる」という夢を人々に与えることで、マーケティングの役割も同時に果たしている。

もちろん、超巨大企業であるソニーグループがこういったコンテンツ戦略の方針を明確に抱いているかといえば、そうではない。だが、実際にソニーグループのコンテンツ事業に従事した人物は音楽業界とゲーム業界を股にかけた活躍を行なっているため、自然とそのような発想で事業に取り組んできたと考えることは妥当だ。

PlayStation4発表後、メディアはハードウェアのスペックに話題を集中させているが、SCEのソフトウェア、つまりはコンテンツ事業に焦点を当てた分析は相対的に少ない。そこで次回はこのSCEの新人発掘路線をもう少し詳しく見るとともに、その功罪を考察、さらにはコンテンツ産業の従事者やクリエイターの特殊性について触れ、PlayStation4の将来を占ってみたいと思う。

2013年3月1日金曜日

部屋と引越しとビデオゲーム

PlayStation4の発表や著名ゲームクリエイターの飯野賢治氏の訃報が報道される中、私はこの一週間、引越し作業で忙殺されていた(SCEのコンテンツビジネスの戦略及び飯野氏については時期を改めて書きたいと思う)。そのため、ゲーム業界の動向については、一足遅れてニュースを確認している。しかしながら、「引越し」というある種の「イニシエーション」は人間とビデオゲームの関わり方を考えるには良いきっかけになったように思える。

引越しにおけるパッケージとダウンロード

他の国の人々はどうか知らないのだが、日本における引越し作業は苛烈を極める。なによりも日本の住環境はグローバルに見ると、極端なまでに狭い。そのくせに日本人は物を収集することに愛着を感じる人が多い。

私も御多分にもれず、大量のCDと本、そして音楽雑誌を所有しており(一部は研究のための資料なのだが)、それらが全体の荷物の中の大半を占める。ビデオゲームに関してはそれほど所有してはいないが、どう考えても日本人のサイズに合わないXbox360を運ぶのは苦労したし、捨てるに捨てれなくなっているセガサターンや故障したまま放置されている初期型のPSPなども発掘され、それらも運ぶハメになった。ついでに海外に渡航する知人から預かったパッケージソフトがダンボール2箱分もあった。

ゲームのパッケージソフトに関しては、その一部を中古業者に売りに出した。古本やCDなどと比べると、ゲームの中古市場は驚くほど安定している。古いゲームであってもパッケージなどがしっかり残っていると、予想以上の高値で買い取ってもらえるのだ。このような中古市場の存在は、日本でのゲームの流通がパッケージソフトからダウンロードに移行しない理由の一因になっているように思える。つまり、相対的に高い価格であっても、それらを買い取ってもらえる市場があるため、日本人の多くはパッケージソフトを買う傾向にある。

とはいえ、やはりパッケージソフトの管理は非常に煩わしい。引越し先で早々にモニターラックにXbox360を設置しても、ダンボールの奥底から遊びたいゲームソフトを探す気には到底なれなかった。インターネットの回線もまだ整っていないため、XBLAで以前ダウンロードしたゲームを遊ぶことしかできない。もちろん、引越し作業が忙しすぎてゲームなんてやっている場合ではないが、常にオンラインであり、その気になれば新しいゲームをダウンロードできるスマートフォンの便利さは引越しをすると痛感する。

パッケージソフトと異なり、ダウンロードしたゲームは転売が不可能であるが、自分のライブラリをハードウェアやストレージごと運べる。でも逆に言えば、パッケージソフトは「財産」でもあり、その転売の自由もあれば、管理のためのコストも必要なのだ。どちらも当然のことなのだが、「引越し」という非日常的によって、より強調され、より鮮明になる。今後は「財産として所有したい」と思うゲームだけをパッケージで買い揃え、その他のものはダウンロードなどで済ませる。現に音楽について行なっているのと同様の指針が私個人の中で固まった次第だ。

ゲームのプレイ環境とコンソールの設置場所

さて、荷物が無事に引越し先に運ばれたとしても、ビデオゲームに関するさらなる問題が待ち構えている。その一つは、コンソールの置き場だ。ひとり暮らしの人ならともかく、家族や複数世帯で暮らしている人にとって、据え置きのコンソールの置き場は1つの悩みの種だ。

私は以前、メインのデスクトップPCと共にXbox360を自身の個室に設置していた。成人男性の個室に設置されるXbox360はいかにも不健康そうなイメージを放ち、血なまぐさいFPSやTPS、ケバケバしい弾幕STG、オタク臭いノベルゲームをプレイするにはピッタシに思えた。

だが、とある事情からリビングルームにXbox360を設置してみると、それらのゲームジャンルが途端に似つかわしくないもののように思えてきた。当たり前だ!子どもがいるリビングでGears of WarやGTAシリーズはプレイできないし、ソファーに座りながらアーケードスティックで弾幕STGをやっている姿はなんだか情けない。ノベルゲームに至ってはプレイするだけでなんだか恥ずかしい!(『STEINS;GATE』のファンである私は、同スタッフが制作した『ROBOTICS;NOTES』の体験版をプレイしてみたが、その内容とかそういう問題以前にリビングルームでやるゲームではないと判断した。)

ハードウェアやデバイスさえあれば、それでプレイするゲームは個人の自由だと我々は思いがちだ。しかし、実際にはプレイする環境によってコンテンツの種類は変化するし、我々の住環境の自由度は思ったほど大きくない。ゲーム専用のコンソールが登場して以来、TVモニターはゲームが遊びたい子どもとテレビ番組を見たい大人の戦場となった。そのような歴史を熟知しているため、任天堂がWiiUでディスプレイを搭載したコントローラーを採用したことは不思議なことではない。

現在の日本においてこれほどまでに単純なカードバトル型のソーシャルゲームが受け入れられた理由として、日本人の通勤通学環境がよく引き合いに出される。しかしながら、モバイルデバイスやスマートフォンなどだけではなく、実際のところコンソールで遊ぶゲームのジャンルや種類も住環境や家族構成によって左右されるのだ。場合によっては同居人の趣味などによっても、それらは変化を強いられる。(ビデオゲームに寛容な同居人を持つ幸福な私は、Xbox360をリビングに置いた後、カウチスタイルで『スコット・ピルグリムVS.ザ・ワールド: ザ・ゲーム』を楽しんだ。そうすることで、スマートTVとして受け入れられているXbox360の北米的イメージが理解できたように思える。)

アーケードパラダイス日本!

さて引越しを行なって数日たった今でも家の中はダンボール箱の山だ。コンソールは無事に設置されたが、インターネット環境もなく、落ち着いてゲームができる環境には程遠い。一応、仕事用に使っているラップトップにはSteamがインストールされており、日本の同人ゲームのいくつかもダウンロードされているが、ダンボールに囲まれて小さなモニタでゲームをやる気は起こらない。

仕事のためにインターネット環境のある場所に向かう私は、ついついゲームセンターに足を運んでしまった。そうだ!アーケードがあるじゃないか!いくら引越し中とはいえ、幸福な日本の私にはアーケードがあるじゃないか!

十中八九タバコ臭く、複数のゲームの音が入り混じり、騒々しい日本のゲームセンター。ゲームをやらない人にとっては近寄りがたく雰囲気をプンプン放っている。だが、久しぶりにアーケードに足を運んだ私には懐かしさがこみ上げてきた。薄暗い照明の中、殺伐とゲームをプレイするゲーマーたち。未来的であるのと同時に懐かしいブラウン管モニタの数々。その環境はすべての種類のゲームにふさわしいわけでは決して無いが、それでもゲームをやるための純粋な場所、神聖な場所なのだ。

アーケードではゲームは決して所有の対象ではない。もちろん、個人で高価な筐体や基盤を購入するマニアはいないわけではないが、基本的にアーケードゲームは私的所有権を阻んでいる。そこではプレイヤーはワンコインの元に平等であり、個人の所有欲といったものとは関係なく、ゲームに対する愛情を注げるのだ。

100円を消費して体験する濃密な10分間(遊べる時間はプレイヤーのスキルによるが)。それは私にとってゲーム体験のオリジンであり、一番ピュアなものだ。電車の中の乗客や同居人の目をはばからずゲームを愛する人達の中でプレイができる最高の環境のひとつなのである。

アーケードもしくはゲームセンターは全盛期に比べると衰退しており、店舗も減少傾向である。しかしながら、ある程度の都市ならば1、2のゲームセンターが見つかる日本は世界的に見れば非常に恵まれた環境である。アーケードに足を運べば、ゲームソフトはコンソールを持たなくても、人はみな平等にゲーマーになれる。そんな当たり前のことを、引越しという非日常を経験することで改めて気づいたのである。

2013年2月18日月曜日

ゲーミングデバイスとしてのAndroidの未来

2013年に入り、PlayStation4の年内発売の報道が複数のメディアから流れている。本格的な発表は今月20日に行われるPlayStation Meeting 2013で行われると思われ、にわかにゲーム業界が賑わっている。昨年は任天堂からWiiUが発表されている。また次世代Xboxの噂が流れるなど、コンソール機の復権に注目が集まっている。

そのような2013年、筆者が一番注目しているのは「ゲーミングデバイスとしてのAndroid」だ。何しろAndroidをOSとして搭載したゲーム機は、今年発売されるものとして既に話題になっているものが3つもある。Kickstarterで華々しく資金を調達したOUYAとGameStick、さらにNVIDIAが開発を手がけているProject SHIELD。

その他にもゲームの周辺機器やコントローラーを含めると、Android関連のゲーミングデバイスは山ほどある。最終的な仕上がりはわからないが、ゲーミングデバイスがこれほど多種多様に生まれてくる様子には正直、ワクワクする。(おそらく、一部のハードは単なる珍品としてコレクターの棚に飾られることになるだろうが。)

この「Android搭載のゲーミングデバイス」の豊作という自体は、ある程度は予想されたことだ。基本的にオープンソースのモバイルOSであるAndroidは、オープンアーキテクチャによって市場を席巻してきたPC/AT互換機と同様の展開をみせる。要するにiOS端末がMacならば、Android端末はWindowsであるのだ。(他方、Windows Phoneがどこを目指しているのかは、まだ良くわからない。)

AppleはiOS端末をゲーミングデバイスとしてアピールしてきたのだが、GoogleもまたAndroid端末をゲーミングデバイスとして売りだそうとしてきた。しかしながら、2013年現在、ゲーミングデバイスとしてのAndroid端末の魅力は、iOS端末に比べると著しく低い。その理由について、以下で簡単に説明するとともに、これらの問題点をOUYAやGameStick、Project SHIELDといった「Android搭載のゲーミングデバイス」が克服できるかどうか考えてみたいと思う。

フラグメンテーション!

ゲーミングデバイスとしてのAndroid端末の一番の欠点は、「フラグメンテーション」という言葉で端的に表現される。

2012年の3月9日にMika Moblieの書いたAndroidから撤退するというブログ記事は、日本でもニュースになった。そもそも二人組の高校生から出発したMika Mobileのようなインディーデベロッパーのブログが、国際的なニュースになるというのも、当時のAndroid市場の牧歌的な雰囲気を反映しているようで、現在の状況はかなり異なっている。

だが、少なくともこの段階でAndroid市場における「フラグメンテーション」は問題化されており、実際にMika Moblieは異なるOSやGPUに対処するのは採算に合わないと嘆いている。さらに日本のAndroidのマーケットでは、ネイティブアプリのゲームが徐々に減っていき、ソーシャルゲームをやるための「名ばかりアプリ」が爆発的に増えていった。

OSと端末の多様性という意味では、現在もAndroidの「フラグメンテーション」は進行している。それはオープンソースのOSであるAndroidにとっては、ある程度、避けがたいことだ。しかしながら、OUYAなどのAndroid搭載のゲーム専用デバイスが登場したならば、話は別だ。デベロッパーはOUYAならOUYAユーザー、Project SHIELDならProject SHIELDユーザーに向けてゲームをリリースすれば良い。他の端末のOSのバージョンやGPUの違いに気にすることなく、ゲーム開発に集中できるだろう。

もちろん、この解決はAndroidの持っている潜在的なユーザーの大部分を失うというデメリットを持つ。しかしながら、その「潜在的なユーザー」には、有料ゲームにお金を払わないカジュアルなゲーマーから海賊行為を行なう「悪しき」ゲーマーが含まれている。デベロッパーとしては、海千山千のAndroidユーザーを相手に商売するよりは、より有料な顧客を持つ「ゲーム専用デバイス」のユーザーを相手にしたほうが幸せになるだろう。

貧相なマーケットであるGoogle Play

「フラグメンテーション」は、主にデベロッパー視点から見た時のAndroidの問題点だ。ユーザーから見た時のゲーミングデバイスとしてのAndroidの問題点は、マーケットの貧弱さにある。というのも、空き時間があるから何か面白いゲームでも楽しもうかと思いたち、Google Playを見たとしても、あなたが本当に面白いゲームを発見する可能性はかなり低いからだ。

Androidのゲームのレビューをしている私は、心底からGoogle Playの貧相さを思い知っている。まともに機能していないランキング、「新着ゲーム」ではなく「人気の新着」というよくわからないカテゴリー、そしてソーシャルゲームにユーザーを動員するためだけの名ばかりアプリの数々。

少なくともiOSではアプリストアのランキングを見るだけで、お気に入りのゲームを1つ2つ探してくることはできる。Androidでは、そうはいかない。たとえ、お気に入りのゲームを発見したとしても、今度は「フラグメンテーション」に阻まれ、あなたの端末やOSには対応していないかもしれない。

もちろん、世界の検索エンジンであるGoogleなのだから、iOSのGenius機能のように、今後はユーザーの嗜好を反映した高機能のインタレストマッチングを搭載してくるかもしれない。また、Androidのエコシステムが浸透していけば、ユーザーはお好みのレビューサイトなどから情報を得ることもできるだろう。(逆を返せば、Androidゲームのレビューサイトはこの貧相なマーケットにこそビジネスチャンスがあるのだ。)

それでも、あなたが本当にゲーマーであるならば、Google Playからゲームを探すよりもAndroid搭載のゲーム専用デバイスを買ったほうが、効率が良いだろう。既にOUYAには、大手デベロッパー/パブリッシャーからインディーデベロッパーまで魅力的なタイトルが並んでいる。まったく知らないゲームであっても、OUYAからリリースされるタイトルがブラウザベースのソーシャルゲームであるようなことはないだろう。

 ゲーミングデバイスとしてのAndroidの可能性

以上、ゲーミングデバイスとしてAndroidの問題点をデベロッパーとユーザー視点からごく簡単に見てきた。Android搭載のゲーム専用デバイスは、これらの問題点を部分的に解決してくれるように思える。

しかし根本的な疑問として、そもそも「そこまでしてAndroidのゲームをやりたいのか?」という問題が残っているように思える。確かにそうだ。ゲーム専用コンソールならば、できたてホヤホヤのWiiUや今年発売されるだろうPlayStation4、次世代Xboxなどを多くのゲーマーは選ぶだろう。実際に専門家たちはOUYA、GameStick、Project SHIELDなどのAndroid搭載のゲーム専用デバイスはニッチ市場に留まるだろうと予想している。

だが他のメジャーなコンソールと比べて、Androidデバイスのメリットも少なからず存在する。OUYAならば、その課金モデル(F2Pからfree-to-tryと名称が変化したが)、Project SHIELDならば、Windows用ゲームへの対応など。さらに、Androidというオープンプラットフォームが持つ最大のメリットとして、デベロッパーの参入障壁の低さだ。

総合的に見れば、積極的にインディーゲームを追うようなゲーマーにとって、これらの「ゲーミングデバイスとしてのAndroid」を可能にしてくれるデバイスは魅力的に映る。OSのバージョンに頭を悩ますこともなく、マーケットが名ばかりアプリで侵食されることもなく、有名無名のゲームをプレイできるのならば大歓迎だ!(そうすると、今度はSteamのようなPCゲームのプラットフォームと競合するわけなのだが…。)

2013年2月7日木曜日

90年代のJ文化とニッチ市場のJRPG

90年代のJ文化

90年代からゼロ年代にかけて日本のサブカルチャーは、日増しにドメスティックな傾向をもつようになった。洋楽を聴く若者は減り、映画や文学などの海外文化に興味を持つ人間は非常にマイノリティになっていったのである。そして、海外文化の後退と共に登場してきた言葉は「J-POP」や「J文学」といった一連の「J」である。

それらの用語の一部は忘れられ、一部はありふれたものになった。対照的にマンガやアニメ、そしてゲームといった日本が独自に発展させた既存のコンテンツ産業には「J」の字が付されることがなかった。要するにマンガやアニメは「日本のモノ」であることは当たり前であるため、わざわざ「Jマンガ」や「Jアニメ」と呼ぶ必要はなかったのである。

しかし、例外はある。「JRPG」だ。

一連の「J」と同様、JRPGも場合によっては蔑称であり、場合によってはニュートラルなジャンルであり、場合によっては誇るものでもある。しかしながら、「JRPG」の興味深い点は、この言葉が「J-POP」や「J文学」などの一連の「J」より遅く普及したことである。つまり、以前なら「RPG」はマンガやアニメと同様に「日本のモノ」であることは当たり前であると、多くの日本人は思っていたのだ!対照的に「JRPG」という用語の普及は、「本来のRPGと日本のRPGが異なる」という認識が日本のゲーマーにも芽生え始めたことを意味する。

ニッチ市場で活躍するJRPG

JRPGとは何か?ゲーマーが2人以上いると、これを議論するだけで夜が明けてしまう。歴史的な特徴としては、日本においてはその起源となるテーブルトークRPG(これも実は和製英語であり、英語ではTabletop role-playing gameなどと呼ばれる)が十分に紹介される前に、ビデオゲームのRPGが一大ジャンルを築いてしまったことが大きい。アナログのRPGから現在のオープンワールド系RPGの流れを、「歴史の正統な進化」として捉えてしまうと、「JRPG」は確かに位置付けの難しい異端であり、傍流になってしまうだろう。

しかしながら、そのような捉え方は現在のコンピュータRPGの源流をテーブルトークRPGに求めようとする歴史観にすぎない。実際に英語版のWikipediaでは、「History of Western role-playing video games」と「History of Eastern role-playing video games」という二項目によってそれぞれの歴史が説明されている。

JRPGはアニメ的なビジュアル、若者(子ども)が世界を救うというリアリティのないストーリー、ダイナミックさに欠けるターン制バトルといった点から批判されることも多い。だが、逆に西洋のRPGもストーリーの希薄さ、一面的なキャラクター、シームレスなバトルシステムによりテーブルトークRPGにあった戦略性の喪失などが批判され、海外にも根強くJRPGのファンや擁護者も多い。

実際のところ両者の美学や価値観の差は、コンソール機天国であった日本のRPGと、PCを中心として進化した西洋のRPGという風にプラットフォームによる影響が大きい。現在はコンソール機の性能がPCに迫ってきたため、PCを中心として成立した西洋RPGがゲーム市場の覇権を握っている。そのため、JRPGはどちらかといえば日陰者、ないしは日本のゲーム文化が産んだ私生児として扱われがちである。

だが実際は、それは高機能のコンソール機でリリースされるAAAタイトルに限ったことである。携帯型ゲーム機やスマートフォンやフィーチャーフォン、さらにPCプラットフォームにおけるインディーゲームなどに目を向ければJRPGはまだまだ人気があり、新作も豊富である。オープンワールド系の西洋RPGがグローバル市場を席巻していたとしても、JRPGはニッチな市場において今なお活躍しているのである。

特に昨今のインディーゲームの中には、日本のゲームで育ったクリエイターの個性が強く発揮された「海外産JRPG」が目立ってきている。そこで今回のコラムでは、最後にクラウドファンディングのKickstarter中から特にJRPGの要素を強調しているプロジェクトを紹介したい。

Kickstarterにおける期待の海外産JRPGプロジェクト

Rival Threads : Last Class Heroes
『Rival Threads : Last Class Heroes』はStudio Kontrabidaによるサイドスクロール形式のRPGだ。現在、Androidをベースとしたコンソール機のOUYA他、スマートフォンやPC向けに開発している。もともとiOS向けでリリースされたゲームの続編として企画されたもので、Kickstarterでは目標金額の5000ドルを大幅に突破して、2万ドルの資金調達を達成している。

動画やアートワークを見ていただければ分かるように、2Dのビジュアルを強く意識したサイドビューのゲームは現在のRPGとしては非常に珍しいもの。学園を舞台にマリオネットを操り、バトルを行なうという世界観はおそらくアトラスの人気シリーズ「ペルソナ」の影響を強く感じさせる。Studio Kontrabidaは複数の国にまたがるスタッフのインディー・デベロッパーであり、まだ主要な実績はないもの、本企画で海外のゲームメディアを賑わせている。

Vacant Sky: Awakening - A Pre-Apocalyptic RPG
『Vacant Sky』はRPGツクールで制作されたインディーゲームのシリーズ作品だ。日本でも人気が高いRPGツクールだが、海外ではRPG Makerの名前で有名でアマチュアからインディー・デベロッパーまで広く利用されている。既にリリースされている『Act I』と『Act II』は無料で公開しており、筆者も少しプレイしてみたが、ダークな世界観といわゆる「厨二病」的設定からはJRPGの匂いがプンプンする。

今回のKickstarterのプロジェクトでは、TRPG的な要素を取り込んでいるが、彼らもまた日本のペルソナシリーズの影響を受けていると認めている。目標金額の8000ドルを上回る1万4000ドルの資金調達に成功している。彼らもまた英米を横断する国際的なプロジェクトであり、アマチュアのゲーム制作から出発して、Kickstarterを通して商業作品に挑戦している。本作もPCを含むマルチプラットフォームでリリースを予定している。

CRYAMORE!
『CRYAMORE!』はスチームパンクの要素を取り入れたアクションRPGのプロジェクト。現在、Kickstarterで出資をつのるキャンペーンを行なっており、目標金額は6万ドルと上であげた作品と一桁違った大きめのプロジェクトだ。だが、もう既に10万ドルを超える資金調達に成功しており、後はどれだけの追加目標額に達するかが楽しみである。(11万7000ドル到達で日本語版がリリースされると知って、私はたったいま120ドルのコースに出資してしまった。)

それもそのはず、本作のスタッフはすでにゲーム業界で活躍してきたプロであり、有名どころではUbisoftの『Scott Pilgrim: The Game』やインディー格闘ゲーム『Skullgirls』(ようやく日本での配信が決定されたようだ)などでアニメーターをつとめたKinukoことMariel Cartwrightや、カナダでマンガやアートブックを出版するUDON EntertainmentのスタッフであるイラストレーターのRob Porterなどが参加している。

ゲームの内容はアニメーション付きの動画を見ると分かる通り、ゼルダの伝説や聖剣伝説など日本の作品に大きく影響を受けたトップビュー型のアクションRPG。キャラクターもアニメ的デザインだが、ディズニー的なテイストもミックスされており、非常に魅力的な和洋折衷なものに仕上がっている。現在も出資者を募集しているため、気になる方は出資してみると良いだろう。

以上のようにインディーゲームのようなニッチ市場では、まだまだJRPGの人気は高く、決してその文化は衰えていない。2Dドット絵の表現も実際には様々な形で進化しており(これについてはまた書きたい)、決してレトロスペクティブな意味だけでこれらのゲームが制作されていないことを強調しておきたい。

日本人である私にとっての目下の問題は、これらのプロジェクトを支援したくても、日本語版のリリースはほとんど見込めないことだ。海外で盛り上がるJRPGが日本のゲーマーに届かないことは非常に残念であり、今後のローカライズに期待したい。

以下、JRPGについて興味深いコラムのリンクを貼っておく。

【コラム】それでもターン制JRPGが好き http://www.choke-point.com/?p=12701

JRPGとは何か http://iwatam-server.sakura.ne.jp/book/export/html/616

2013年1月28日月曜日

インディーデベロッパーに焦点を合わせる国内ミドルウェア

年明け1月10日にCRI・ミドルウェアは、ゲーム開発のオーディオシステム「CRI ADX2」のインディーデベロッパー向けの無償版をリリースした。「ADX2」は国内外でデファクトスタンダードとなっているゲーム開発ミドルウェアである。インディーデベロッパー向けパッケージ「ADX2 LE」もプロ向けと完全に同じ機能のオーサリングツールを備え、多彩なサウンド演出が可能になる。

このようなゲームエンジン/ミドルウェアがインディーデベロッパー向けに無償化される流れは、急成長を続けてるUnityや「Unreal Engine3」のインディー向けパッケージ「Unreal Development Kit」など主に海外から始まった現象である。その狙いは様々あるだろうが、基本的にはインディーデベロッパーにツールを流布させることで、ユーザー・コミュニティを育てることが重要なポイントだ。

ユーザー数が多ければ、ゲーム開発のノウハウを互いに共有することも可能であり、ツールが1つのプラットフォームとして拡大していく。いわゆる「ネットワーク外部性」が効果を発揮し、ミドルウェア提供会社はそのユーザーの規模を利用して、一部の機能を有料化するなり、特別なサポートを行うなり、フリーミアムのビジネスモデルを採用することが可能になっていくのだ。 

興味深い点は、これら海外のゲームエンジンだけではなく、冒頭のCRIのニュースのように国内のミドルウェア提供会社もまた「インディーデベロッパー」に焦点を当てていることである。一昔前ではゲーム開発を行なうにはコーディング、グラフィック、サウンドなど多様なスキルが必須であった。だが、これらのミドルウェアを利用することで個人や小規模なゲーム開発が格段に容易になったのだ。

もちろん、これらの商用ミドルウェア以外にも、日本のPC文化には様々なフリーやシェアのツール、ライブラリが公開され、フリーゲームや同人ゲーム開発に大きな影響を与えてきた。しかしながら、ゲーム業界においてデファクトとなるツールを利用することで、クリエイターはアマチュア時代やスタートアップに培ったノウハウをその後のキャリアにも活かせるというメリットがある。

つまり、これらの国内ミドルウェアがインディーデベロッパーに焦点を合わせるという潮流は、大きく捉えるならば、日本のゲーム産業を活性化させようという強い意志によって動かされている。海外のインディーゲームが盛り上がりを見せ、産業としての存在感を感じさせる規模になってきたのは、やはり制作環境の向上によるものが大きい。今後のインディーゲーム、そして日本のゲーム産業全体の発展を願う意味を込めて、ここでは国産のミドルウェアについて簡単に紹介したいと思う。

伝統あるツクールシリーズの再生

「ミドルウェア」というべきかどうかはともかく、おそらく国産のゲーム開発ツールとして最古であり、現在まで開発が続けられているものとしては「ツクールシリーズ」がある。最初期のバージョンは、アスキーが1990年に発売したMSX2用『RPGコンストラクションツール Dante』まで遡る。現在はエンターブレインが開発と発売を行なっており、RPG以外にもアクションゲーム制作のためのツールや画像素材などを提供している。

日本のホビーパソコン規格MSXのために作られたことから分かる通り、ツクールシリーズは基本的にアマチュアのゲーム制作用のツールだ。そのため、機能は限られている分、製品自体は非常に安価。現在でも多くのアマチュア・クリエイターたちが作品を作っている。私自身もこれまで何本もの「ツクールゲーム」をプレイしてきたが、限られたリソースの中で創意工夫を行なう素晴らしいクリエイターは多い。

アマチュア向けと思われているツクールシリーズであっても、商用利用自体は可能である。日本においては、どうしても「ツクールゲーム=フリーゲーム」という認識が強く、「ツクールの世界からインディーデベロッパーに」という話はほとんど聞かない。しかしながら、Playismでも配信されているききやま氏の『ゆめにっき』、昨今、同人業界で話題になったkouri氏の『Ib』など国内外から注目される作品も存在する。(これらの作品がRPGツクールを利用しながらも実際はアドベンチャーゲームであることは注目に値する。昨今の海外インディーゲームシーンでも、アドベンチャーゲームに対する再評価は高く、インディペンデントなクリエイターの美学は地下水脈でつながっているようだ。)

もちろん、RPGツクールシリーズで制作されるゲームはグラフィックの面でもシステムの面でも制約が多い。しかしながら、レトロな2Dグラフィックであるドット絵(pixel art)を逆手に取った表現も可能であり、海外インディーゲームでは『To the Moon』のような傑作も生まれている。海外では「RPG Maker」という名前で知られ、『To the Moon』以外にもインディーデベロッパーの商業作品にも利用されている。

過去には音楽制作やグラフィックのためのツールも提供していた本シリーズ。歴史が古いだけあって、プラットフォームによってはツールの互換性がない、マルチプラットフォームには対応していないなどの問題もある。しかし、ゲームのミドルウェアがインディーデベロッパーに開放されつつある今、日本のホビーパソコン文化に根ざしたツクールの世界はアマチュアのゲーム制作の歴史として十分に再検討の余地がある。

精力的に同人ゲームを盛りたてるマッチロック

国内のミドルウェア提供会社の中では、CRIに先んじてマッチロック社が2011年にインディーデベロッパー向けの3Dエフェクトツール「BISHAMON Personal」をリリースしている。「BISHAMON」自体はシリコンスタジオが提供するプロユースのエフェクトツールだ。

「BISHAMON Personal」は「ADX2 LE」と異なり、無償版というわけではないが、プロユースのツールをインディーデベロッパーに向けて格安で提供している。さらに、前年度の年商1000万円未満なら商用利用も可能であり、Windowsは当然、iOSやXbox360で再生するためのSDKも格安で提供している。

「エフェクト」はゲーム開発において重要な演出部分ではあるが、個人や小規模なデベロッパーでは後手後手に周り、プログラマーやグラフィッカーが片手間に制作することも多いという。画像素材を組み合わせることで制作すること自体は比較的簡単ではあるが、ゲームの動的な要素であるため、最終的なチューニングにはトライ・アンド・エラーを重ねる必要がある。そのため、リッチな演出のゲーム制作には「BISHAMON Personal」のようなプロユースのツールは非常に効果を発揮するのである。

またマッチロック社は、このようにインディーデベロッパー向けのバージョンをリリースするだけではなく、国内のインディーデベロッパーや同人サークルを盛り上げる活動を行なっている。ユーザー向けのセミナーを行なうのはもちろんのこと、2012年のCEDECの展示では同人ゲームのデモを流すなどの取り組みを行なっている。また「BISHAMON Personal」を使用した賞金付きの「ゲームエフェクトコンテスト」を開催するなど、その意欲的な姿勢には驚かされる。

また国内の同人ゲームの開発者たちも、それらのマッチロック社の姿勢に応えるように、「THE GAME EFFECT」という合同誌をリリースしている。ベテランの同人サークルD.N.A.Softwaresが中心となり、同人サークルのクリエイターたちがそのノウハウを同人誌の形で共有する姿には、日本の草の根ゲーム開発コミュニティのバイタリティーを感じる。ミドルウェア提供会社のサポートを得つつ、インディーデベロッパーがこうしたボトムアップな活動を行なうのは、クリエイティブな産業の理想的な形のひとつではないかと思う。

2Dグラフィックに特化するウェブテクノロジのツール

インディーデベロッパー向けのパッケージはないが、ウェブテクノロジ社の「SpriteStudio」は個人でも購入可能な価格の2Dに特化したアニメーション制作ツールだ。スマートフォンも含めたマルチプラットフォームに対応しており、ソーシャルゲームからシューティングゲームまでに幅広く利用されいる。

筆者は昨年のCEDECでまもなく発売される次期「SpriteStudio」のセッションを取材しているが、予想以上に参加者が多く、「2Dアニメーションツール」に対する期待を感じた。言うまでもないが、日本人は世界でも類を見ない2Dグラフィック好きである。そのため「SpriteStudio」のようなツールの需要は高く、また手軽に作成できるため、今後のインディーデベロッパーにも受け入れられる可能性は非常に高い。

また同社が開発したマンガ作成ソフト「コミPo!」は、3Dモデルに様々な属性を付与して2Dのキャラクター画像を作成することが可能だ。基本的にはモデルのポージング、コマ割り、フキダシなどを設定して誰でも気軽にマンガを書くためのソフトだが、ゲーム用のキャラクター・グラフィックとしても利用可能。非常に安価であるため、絵に自身がなくてもノベルゲームの立ち絵などなら簡単に作れる。

ゲーム開発人口の増加を望む国内ゲーム業界

ここでは紹介しきれなかったが、他にもインディーデベロッパーや個人が利用可能なツールやミドルウェアは様々ある。HTML5とJavaScriptライブラリを利用した「enchant.js」は、ユビキタスエンターテインメントが提供する無料のオープンソース・フレームワークだ。また「吉里吉里」や「NScripter」といった日本のノベルゲーム文化を築き上げた優れたフリーソフトがある。(ゲームエンジンとノベルゲームのグローバル化についてはまた別の機会に紹介したい。)

これらのツールやミドルウェアはアマチュア向けのライトなものからプロユースの多機能製品まで様々ではあるが、いずれにせよ、ゲーム開発の楽しみを感じさせ、開発者人口の増加に手を貸していることは間違いない。また昨年、WiiUをリリースした任天堂がUnityとグローバルライセンスの契約を結んだことから分かるように、ゲーム業界全体が開発者人口の拡大を望んでいるのだ。

原稿を書いているたった今、全世界では「グルーバルゲームジャム」と呼ばれるイベントが行われている。そこではたった48時間という限られた時間の中で、開発者たちがロック・バンドのセッションのようにゲームの開発を行なっている。このようなイベントに対しても、ゲームエンジンやミドルウェアといった開発ツールが与える恩恵は大きい。そして実際に、国内のミドルウェア提供会社も協賛を行なっているのだ。

もちろん、企業であるそれらの会社は自社のユーザーを増やすことが第一の目的だろう。しかしながら、国内のゲーム業界全体がゲーム開発人口の増加を望む潮流にあり、筆者もそれを応援していきたい。


追記:(2013/01/31)
2012年12月より、プロ版のBISHAMONもBISHAMON Personalと同様、これまで開発・保守を行っていたマッチロックが販売を手がけることになった。

2013年1月22日火曜日

「置き去りにしないでくれ!!」

「好きなゲームは、なんですか?」と聞かれた時に、私はゲーム性やデザインなどのエンターテイメント要素が優れたゲームより、優れた物語を持ち合わせているゲームを答える場合が多い。

失恋した時に聞いた歌が、人生に影響を与える力を持つように、自分の人生とのタイミングによって、物語は心に強く訴えかけ、何年にもわたり人生に影響を与える(もしかしたら、人生そのものを変えてしまう)力を持っている可能性がある。

スペイン北部の港町に生まれた私が、インターネットやゲームなど存在しない時代に、物語と親しむ方法といえば、読書、映画、年配の人たちや友人が語る話しの3つしかなかった。特に読書には夢中になり、多くの物語に触れる事ができた。

運よく私の家は、多種多様な本で埋め尽くされており、(正確に何冊あったかは、分からないが3500冊は下らないと思う)毎日3、4時間は読書をして過ごしていた。

当時も今も、影響を受けた物語は海をテーマにしたものだった。ナイフを口にくわえて新しい冒険へと海に飛び込む勇猛な男たちの、想像を絶する困難を乗り越える物語が、私に与えてくれたものは数え切れない。

特に私のお気に入り、ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)とロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)、二人の作家の物語からは、今でも物事を理解する為に利用する事もあり、問題や困難を迎えた時には、鎮痛剤の代わりにさえなる事もしばしばある。

だが私の人生に強く影響を与えた物語は、作られた物語ではなく、実際に起こった物語である。中でも、第二次世界大戦中に漂流した船乗りたちに起こった物語は、いつも頭の中にある。この物語は、日本ではあまり知られていないが、スペインでは様々なドラマや童話にでさえなる有名な出来事です。

第二次世界大戦中の夜明け、大西洋ど真ん中でスペイン人の若い船乗りを乗せた貨物船に、ドイツ軍の潜水艦からの魚雷が命中した。 状況を想像してみてほしい。夜明け直後の暗闇の中、爆発音と同時に沈む船、船上は混乱に包まれ、炎と煙だらけの海に身を投げる男たち、大海原の恐怖・・・

オイルで汚れたボートやイカダにひしめき合い、寒さに震え、負傷したもの達もいる中、6日間食べ物も水も無く漂流した後、幸運にも救助された者たちがいた。

この物語の中で、私にとって一番インパクトを与えたシーンは、船乗りたちは、一艇のボートとボートに繋いだ木製のイカダで漂流していた。4メートルもの強い波に見舞われ、船尾にイカダをつないだボートは、その煽りを受け大量に浸水し転覆の危機に至った。

ボートの上では、イカダが繋がれている綱を切って見放すべきかどうかについて激しい議論が展開されたが、最終的にはイカダを繋いだままにしていた。しかし、夜間に誰かが綱を切ってしまった。他の者は暗闇の中、イカダからの船乗りがあげる、悲痛な叫び声で目を醒ました。

「置き去りにしないでくれ!!」

イカダはどんどん小さくなり、叫び声は徐々に聞こえなくなった。暗闇での船上で聞こえるのは、波の音と風の音だけになった。3日後、漂流船はイギリスの護衛戦によって救出されたが、イカダとその乗員についてのその後を知ることは無かった。

このような物語は、他にもたくさんあるだろうが、初めて聞いた時から、深く心に残っている。特に夜の海の近くにいる時には、遠ざかるイカダからの仲間たちの声を聞いていた乗員達の事を考える。また、イカダの綱を切った者の後悔の念を。その事を考えていると私の抱えている全ての問題も、この船の乗員や死に押し迫られた運命に比べれば戯言であり、なんでもない事のようだ。

ただ先日、日本でこの物語を再現した番組を見たが、侮辱されたように感じた。内容は基本的に同じで、状況はかなり詳細に説明されていたが、自己克服と生き残りの物語として描かれた物語は、まるでディズニー映画の様だった。しかも、イカダの綱が夜に勝手に切れた設定にしてあった。残念な事に、この実話を特徴づける仲間を見捨てる卑怯者の船員の仕業として描かれていなかった。

「置き去りにしないでくれ!!」

意図的に突き放した場合と、自然に離れて行った場合、同じ言葉でも全く違う聞こえ方がするものではないだろうか。

とにかく甘ったるい物語になっており、最後にアンパンマンかドラえもんが登場して、全ての遭難者を助けるのでは?という思いが頭をかすめたほどだ。

日本ではこの物語は、第二次世界大戦中に起きた一つの逸話であり、イカダの綱を切るか切らないかで、もめた船員たちのエピソードは、この番組を見た者の心には響かないだろう。作成者たちは、この実話の持つ内容、意味を実際とは全く違う作品にしてしまった。

こういった類の失敗が、日本ゲームにも起きている。しかも近年は、そういったケースが顕著に存在している。10年前、全てのゲーム作成者は、まだ品質に関するポリシーを持っており、いくつかの日本ゲームは、現在の30代から40代の世界中の人たちの人生を決定的に変える影響力を持ち合わせていたほどだ。(アメリカ人に好きなゲームトップ10を聞いてみて欲しい。少なくともそのうちの3つは日本製だろう。)

しかし、現在の日本ゲーム業界は品質よりも早さを優先するようになった。特に海外に提供する為には、早さを求め過ぎ「なんでもOK」という思想が生まれ、素晴らしい品質のゲームであっても海外では、まったく異なる捉え方をされ、ただのクソゲーとなってしまう。(先ほどの漂流事件と同じように。) また、どこかで見たような似たりよったりなゲームが多くリリースされている。

今回の文章が、ゲーム業界全般に関する批判だとは思わないで欲しい。もちろん素晴らしい作品はいくつもある。(例として、パズル&ドラゴンは本当に素晴らしい。)しかし、今日のゲームクリエイター達が世界中600万人の購買力のあるゲーマーたちに提供する立場にあるとするならば、どこにでもあるようなコピー作品を作るよりも、本当に影響力のある革新的な新しいコンセプトをつくり上げるべきではないかと思うのだ。

海外のゲーマーは、品質の高い日本のゲームを待ち望んでいる。なぜなら、大げさに聞こえるかもしれないが、『日本』は『品質』の同義語なのだ。「Made in Japan」 の製品を買うのは、「Made in Vietnam」のものを買うのとはワケが違う。(ベトナムの人を侮辱するつもりは一切ない。)しかし、海外に進出する為には10年前と同じように良質な製品を作らなければならない。まず買う価値のあるゲームを作成し、ふさわしいパートナーや基盤を探す。ローカライズに関してその条件を明確にし、しっかりとしたプロモーションを行う必要がある。早さを求める事は、決して悪い事ではないが、1週間で全てをやってしまおうとする事は、絶対にやっては行けない。
要するに、「やるべき事を、きちんとやる」簡単なように聞こえる事だが、実際にはとても難しい。それをやるには、いくら時間があっても足りない。忘れては行けない事は、物事には時間がかかるという事だ。

私は10年後も人々の心に残り、影響を与える事のできる高品質のゲームを待ち望んでいる。また、現在のテクノロジーを駆使する事で、素晴らしい作品が提供出来ると確信している。

2012年は、月並みなゲームとお粗末なローカライズの年だった。 我々は自らの手で、イカダの綱を切りゲーマーたちは、暗闇の中叫びながら少しずつ離れて行っている。

「置き去りにしないでくれ!!」

今はまだ聞こえるゲーマーたちの叫びが聞こえなくなった時、残るのは波の音と風のうなり声、そして暗闇の中の沈黙した船。

沈黙した船には一体、何が残り、どのようになってしまうのでしょうか? 大西洋の荒れ狂う大海原のど真ん中、不安定なボートであっても生き残らなければならない。もちろん、イカダの綱を切る事は考えてはいけない。

2013年1月16日水曜日

ゼロ年代とスチームパンク

今更なのだが、最近になってガイ・リッチー監督の映画『シャーロック・ホームズ』を見た。本作はあのコナン・ドイル原作の「シャーロック・ホームズ」の現代的な解釈として話題を集め、推理というよりアクション性が高いエンターテインメント作品だ。中でもロバート・ダウニーJrが演じる現代的なシャーロック・ホームズは引きこもりの発明家でありながら、ロンドンで賭けボクシングをやるような風変りなゴロツキ風。ディア・ハンターの帽子をかぶった英国紳士とはまた違った趣があり、これはこれでなかなか楽しかった。  だが本作の一番の魅力は、その衣装やガジェットなどの美術や19世紀後半に独特なロンドンの風景だ。アカデミー賞の美術賞を受賞するほど、衣装やガジェットは凝っており、特にホームズが発明するガラクタのようなガジェット、さらに結末に大きく関わる大量破壊兵器などのデザインは素晴らしいものであった。端的に言えば、いわゆるSFのある系譜である「スチームパンク」の影響が強いのだ。


ゼロ年代を席巻したスチームパンク・ブーム  

スチームパンクとはSFのルーツであるジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズなどの19世紀後半の小説に影響を受けたSFのサブジャンルである。私はSFについては門外漢なので、より詳しく知りたい方は、文末のリンクのWebサイトや昨年発売された『SFマガジン』7月号のスチームパンク特集などを読んでみてほしい。  

だがその典型的なモチーフからスチームパンクをごく大雑把に説明すると、「Steam」の名前のとおり蒸気機関やゼンマイ、歯車といったレトロフューチャーな機械が登場したり、ヴィクトリア朝のファッション(ネオ・ヴィクトリアン)や世紀末イギリスの世界観を模倣したり、DIY志向が強い発明家が登場したりするようなSF作品のことを指す。  

SF小説ではウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングの1990年の『ディファレンス・エンジン』がこのジャンルの金字塔となり、日本でも有名だ。だがその後、SF小説の世界ではスチームパンクというジャンルはいったん廃れていったという。  

しかしながら、スチームパンク的世界観はゼロ年代には小説以外の分野において一大ブームとなった。ビデオゲームの世界も同様で、『ミスト』(1993)、『バイオショック』(2007)といった傑作もスチームパンク的世界観を生み出している。Playismでローカライズされている『マシナリウム』(2009)のファンタジックなロボットのデザインもスチームパンクの雰囲気がよく表れている。  

他にも映画やファッションといったものにとどまらず、音楽やテクノロジーといった分野にもスチームパンクの流行は表れているという。日本でも話題になったクリス・アンダーソンの著書『メイカーズ』も、そのようなスチームパンク・ブームにおけるDIY志向を強く打ち出したものだ。そのため、2000年以降のスチームパンク・ブームは単なるSFを超えたものに広がっており、もはやグローバルなトレンドと言えよう。

日本ではイマイチふるわないスチームパンク  しかしながら、日本においては「スチームパンク」なる言葉は一部のSFファンや海外文化に関心がある人にしか浸透していないように思える。クリス・アンダーソンの本にしても、単なるビジネス本としての紹介がほとんであり、スチームパンク・ブームとして紹介されるのを目にしたことはほとんどない。  

だが一方で、ゼロ年代の日本のポップカルチャーにスチームパンクがなかったと言えば、そうではない。実際にはいくつかのアニメやゲームがこのジャンルに挑戦してきたが、残念なことに大衆的に受け入れられることも、ブームとしても定着しなかったと言えよう。  

例えば、大友克洋監督の『スチームボーイ』はその名から分かる通り、スチームパンクを強く意識した日本のアニメーション映画であった。作品の良し悪しはともかく、映画としての興行成績は残念ながら良いものではなかった。ゲーム化もされたがさほど評判も聞かない間に忘れ去れた感がある。  
また2000年代前半、グローバルなコンテンツとしてのアニメーションに果敢に挑戦したGONZOは『LAST EXILE』という素晴らしいスチームパンク的世界観のTVアニメを制作している(残念なことに、2012年に作られた続編は惨憺たる内容だった)。  

そもそも日本国内のアニメやゲームなどでは、萌え系、日常系、空気系とよばれるほのぼのとした世界観のオタク系コンテンツが主流であり、SFやファンタジー的な作品は予想以上に人気がない。前述した海外のスチームパンク・ブームの影響は日本では皆無といって等しく、アニメにしろゲームにしろスチームパンクという言葉が話題になることは非常に稀である。(個人的に2DSTGファンの私にとって、CAVEの制作した横シューティング『プロギアの嵐』(2001)はジュブナイル的要素とスチームパンクの世界観を見事に調和した作品だと思うが。)


ファイナルファンタジーが与えた影響  

以上のように日本のポップカルチャーは、国際的なゼロ年代のスチームパンク・ブームとほとんど接点を持たいないまま進んできたように見える。とはいえ、忘れてはいけないのは現在のスチームパンクの流行、特にビジュアルと世界観に大きく影響を与えたのが日本のゲームであったことを忘れてはいけないだろう。  

1997年にPS向けにリリースされた『ファイナルファンタジーⅦ』はシリーズ史上、最大のヒット作である。全世界で970万本という驚異的な売り上げを記録し、北米史上だけでも300万本売れている。ビデオゲーム史としては、コンソールビジネスを任天堂からSCEへと大転換したソフトして語られる事が多い。しかし、本作の重要性は単なるビジネスの領域にとどまらず、「現代的なファンタジー」という革新的な世界観を打ち立てたものとしても記憶されるべきである。  

古典的な剣と魔法の世界のファンタジーから出発したファイナルファンタジー・シリーズは『ファイナルファンタジーⅥ』のころから、「魔導」と呼ばれる魔法と科学の力をフィーチャーし始め、それは続編の『Ⅶ』にも大きく引き継がれた。『Ⅶ』では、さらに「魔晄エネルギー」という力を独占する「神羅カンパニー」という巨大企業と、それに反抗するレジスタンス集団「アバランチ」の間で物語が展開する。  

『Ⅵ』が持つ魔法と機械の世界は、SFCでは2Dのドット絵でしか表現できなかった。だが『Ⅶ』はPSの強み活かして、それらの世界観が3Dグラフィックで表現された。結果として、グローバルな市場においても驚異的な成功を勝ち得たのである。  

またこれまでのファンタジーベースのRPGが魔王や悪魔といった敵役を設定してきたのに対して、悪役が企業体であることは、当時としては斬新かつ画期的なものであったように思える。そして産業が発達したディストピアにおいて、政府や魔王といった敵ではなく、レジスタンスとして企業(!)と戦うという設定は、今から思えば、サイバーパンクから派生したスチームパンクのテイストをかなり忠実にすくい取っているように思える。(ただ個人的に思い入れが強いのは『Ⅵ』の方だ。一国の主でありながら、色男の発明家のエドガーはファイナルファンタジーの中で私の一番のお気に入りキャラクターであるが、これまたスチームパンク色が強いキャラクターだ。)


世界観によってグローバルなトレンドを作る  

昨年はWindows版の『ファイナルファンタジーⅦ』のダウンロード販売が行われ、英語圏では本作が何度も話題に上がった。そのような再評価の中には、本作をゼロ年代のスチームパンク・ブームのパイオニアとして位置付けるものもあっただろう。日本ではスチームパンクがいまいち流行らないため、そういった再評価は少ない。だが、グローバルなビデオゲーム市場に挑戦するために「スチームパンク」というジャンルが1つの鍵となると考えても良いだろう。  

日本ではカジュアル・ユーザーにも受け入れられているドラゴンクエスト・シリーズの知名度が高く、ファイナルファンタジー(特にそのナンバリング・タイトル)といえば、日本のコアゲーマー向けと思われている。だが、グローバルに見た場合、ファイナルファンタジー・シリーズが持つ人気は圧倒的に高く、しかもその人気の大部分が『Ⅶ』で打ち出したスチームパンク的世界観であったと思われる。もちろん、これは現在のスチームパンク・ブームから見なおした後付であり、言わば後出しジャンケンと言われればそのとおりだ。  

それでも当時としても本作が持っていた世界観のインパクト、さらに後世に及ぼした影響は重要だ。ゼロ年代の世界的ムーブメントに日本のゲームが果たした役割を見直すことは、今後のコンテンツ産業が海外進出を図る時の格好のケーススタディだ。逆に言えば、1997年の段階にはコンテンツ産業において日本と海外の間に蜜月があったわけで、海外市場を展望に入れているクリエイターやプロデューサーは、『ファイナルファンタジーⅦ』そこからゼロ年代の海外サブカルチャーを徹底的に見直す必要があるだろう。


リンク 

S―Fマガジン2012年7月号
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/721207.html

「スチームパンク・レヴォリューション」―スチームパンク特集2012
http://www.26to50.com/jp/steamPunk2012_index.html

会誌『Void Which Binds 復刊1号』
SFの同人誌。冒頭の「二一世紀スチームパンク概観」が参考になる。
http://ensemble-sf.info/2012/09/void-which-binds-1.html

2013年1月7日月曜日

ゲーム開発の民主化とその先にあるもの

謹賀新年。

昨年2012年はゲーム産業にとって激動の1年だっただろう。日本国内ではソーシャルゲーム業界が 台頭する一方、コンプガチャが社会問題化。また多くのコンシューマゲーム会社がスマートフォン・プラットフォームに乗り出した。  海外ではドキュメンタリー映画『Indie Game: The Movie』が公開されるなど、インディーゲームが大きな注目を浴びた。中でもMinecraftは累計1750万ダウンロードという偉業を達成し、こち らもドキュメンタリー映画『Minecraft: The Story of Mojang』が制作された。もはや海外のインディーゲームシーンはクリエイティビティの点でも、産業の規模としても、無視できないものになっている。

昨 年末、筆者も足を運んだ「黒川塾」第四回目では、エンターテイメント大賞を決定するというイベントが行われた。黒川塾はエンターテイメント産業を数々に遍 歴した黒川文雄氏がボランティアベースで行なっているイベントだが、そこでは著名な業界人が一堂に会して、2012年のエンターテインメント産業を振り返 ることになった。話題になった対象は、ガンホーの大ヒットスマートフォンゲーム『パズル&ドラゴンズ』、無料音声通話&メッセンジャーア プリのLINEなど、日本国内のものに偏った感がある。だが最後のフロアからの質問コーナーでは、UnityやOUYAといったグローバルな話題にも触れ られた。

改めて説明するまでもないが、Unityは北欧のUnity Technologiesが開発しているマルチプラットフォームのゲームエンジンだ。筆者はゲームレビュアーとしてAndroidのゲームを数多くプレイ しているが、混沌としたAndroidマーケットの中でUnityのロゴマークはある種のブランドとして機能していたと思う。少なくともUnityで作ら れたゲームは一定のクオリティが期待できるからだ。

日本ではソーシャルゲームのニュースの影で息を潜めていたが、昨 年のゲーム業界のカンファレンスでUnityの文字を見なかったことはほとんどなかった。そのくらい彼らは宣伝活動は熱心であり、スマートフォンを始め、 マルチプラットフォーム化するゲーム業界に今後も多大に影響を与えることは確かだ。

OUYAもまた説明不要かもしれない。今年の4月には発売される予定の「次世代」ゲームコンソールだ。OSにAndroidを採用し、ライセンス契約不要の無料の開発用SDK提供するというこの寛大なゲームマシンはその開発過程もまた特徴的だ。

昨 年の7月10日に米国のクラウドファンディングKickstarterにてプロジェクトを公開。860万ドルといい歴代第2位の資金獲得に成功し、プロ ジェクトがスタートした。スクウェア・エニックスやバンダイナムコゲームスといった日本の大手パブリッシャーも参入することを発表。その成功は未だ約束さ れたものではないが、コンソール機市場の未来が暗い中では一際明るいニュースであった。

「ゲーム開発の民主化」は、 このようなUnityやOUYAのトレンドを一言で表す便利な言葉だ。Unityは早い段階からこのキャッチフレーズを使用していた。OUYAもまた、そ のオープンなプラットフォームを強調するために「民主化」という言葉を使用する。日本では、そのビジネス的なメリットばかり強調されるF2P(基本プレイ 無料)というマネタイズ方法も、海外では主に海賊版対策であり、そして「ゲームの価格の民主化」としてみなされているから驚きだ。

こ のような民主化が、インディペンデントなデベロッパーに果たす役割は極めて大きい。旧来なら、開発環境を準備して、ファーストパーティとライセンスを結ぶ だけでも多額の資金が必要であったゲーム開発・流通が一気に容易になるからだ。日本国内でもUnityを含めたゲームエンジン提供会社はインディペンデン トなデベロッパーに焦点を合わせてきている。(ゲームエフェクト用のエンジンBISHAMON Personalを提供するマッチクロック社が、昨年のCEDECで同人ゲームを展示していたのには筆者も驚いた!)

も ちろんこのような「民主化!民主化!」という叫び声は、ある部分、バズワードであることは否めない。民主政と衆愚政が紙一重であるのと同様、ゲーム産業に おける民主化が必ずしも良いことは限らない。現にオープンなプラットフォームであるAndroidやWindowsといったOSでは、クズのようなアプリ ケーションから有害なプログラムには事欠かないのだ。

それでも、制作の簡便化と参入障壁の低下はコンテンツ産業にお ける必然だ。録音編集技術が広く普及した音楽は、いち早く「民主化」を達成した業界であり、今では世界中のありとあらゆる場所で音楽は制作され、インター ネットを通して流通している。BandcampやSoundCloudといった音楽のウェブサービスには、有名無名や品質の良し悪しを問わず果てしない数 の音源がアップロードされている。

このようなコンテンツの爆発的な増加は、望ましくもあれば、頭痛の種にもなる。人 生が有限である以上、聞ける音楽の数は限られる一方、大量のコンテンツから「当たりを引く」のは以前よりも難しくなっている。ゲーム業界もそう遠くない将 来、同様の現象にみまわれるだろう。そして消費するための時間が長大なゲームの場合、それは音楽以上に深刻な問題になるかもしれない。

ポ ピュラー文化が辿る歴史的変遷から考えれば、そのような「コンテンツの爆発」に引き続いて起こる現象としては、「批評の民主化」が挙げられるだろう。もち ろん、ビデオゲームには新作のレビューや批評といった実践は既に存在している。しかしながら、それらは主に(良くも悪くも)業界と関係が深い一部の商業メ ディアが実践してきたことであり、常に「広告」や「宣伝」といったメディアが果たすべき他の役割との間に軋轢を生み出してきた。さらに、パッケージ時代と は桁違いのコンテンツの数に既存の商業メディアが対応しきれるかどうかわからない。

英語圏ではこのような状況に対し て、2000年代には優れたゲーム批評を行なうブログメディアが出現してきた。例えば、Rock, Paper, Shotgunは4名の著名なゲーム・ジャーナリストが運営するブログであり、日本のPCゲーマーにとっても有名どころだ。メジャーなAAAタイトルから マニアックなインディーゲームまで扱うその姿勢は、既存の商業メディアではありえなかったものだろう。また女性のゲーム批評家かつプロデューサーの Tami “Cuppycake” Baribeauが手がけるThe Border Houseは、フェミニズムの観点からビデオゲームを論じるという日本にはないタイプのメディアだ。

これらのブログ メディアが既存のメディアとは異なった形でビデオゲームを切り取ることで、海外には新しいビデオゲームのシーンが生まれてきた。インディーゲームの躍進の 年となった2012年も、インディーゲーム・デベロッパーの奮闘だけによって作られたわけではない。文化の発展は常に制作者と受容者の対話によって後押し されるわけだ。

UnityやOUYAが示す「ゲーム開発の民主化」という未来は、日本のインディペンデントなデベ ロッパーたちにはもちろん歓迎されるものである。しかしながら、本当の意味において「ゲーム開発の民主化」するためには、単にオープンなゲームエンジンや プラットフォームが誕生するだけでは、まだまだ先は長い。個人やグループによって自由に制作されたゲームが、エンドユーザーにも認識され、プレイされ、 AAAタイトルのゲームと比較され、評価される。そういった一連の実践が成立してこそ、「ゲーム開発の民主化」が達成されるのではないだろうか?そして、 そのような「ゲーム開発の民主化」を後押しするものとして、「ゲーム批評の民主化」が果たすべき役割は多いと感じている。