2012年12月14日金曜日

消費のユーザーエクスペリエンス―ダウンロード販売時代におけるコンテンツの売り方 (part 1)



ダウンロード販売が今よりも一般的ではなく、海外でiTMSなどが登場し始めた頃。ダウンロード販売に関して懐疑的な人々の中には、コンテンツのパッケージ販売からダウンロード販売への以降で失われるものとして「リアル店舗における購入体験」を指摘していたのを覚えている。それらのいくつかは単なる懐古主義の一形態だったようにも思えるが、今あらためてこの問題を考えることは、コンテンツを購入するということが独自の経験――広い意味でのユーザーエクスペリエンス――を創りだすという洞察が得られるだろう。

パッケージからダウンロードへの以降によって失われるものは、物理的なモノにある保存性や財産としての魅力など様々の要素がある。そしてその中には「パッケージをリアル店舗で買う」という独特な体験も含まれているだろう。私も当時はこのような主張に概ね同意を示していたし、一部の大好きな音楽やリスペクトしている同人ゲームなどは今でもリアルな店舗で買うのが好みだ。

事実、ある程度の音楽好きやゲーム好きならマイフェイバリットなCDやレコード、ゲームソフトの購入に関しての思い出を一つや二つ持っているのではないだろうか。もちろん、私にもある。私はファミコンからスーパーファミコンの黄金期に地方で育ったが、家庭の方針から任天堂のファミリーコンピューターは買い与えれなかった。そのかわりに父親は当時のホビーパソコンであるMSXの後期のバージョンを買い与え、私はそれで少しのBASIC言語を学ぶと共に(すぐに放り出したが)、父親にせがんで地方の電機店でゲームソフトを買ってもらった。

中学生からは深夜ラジオから洋楽に関心を持ち、音楽雑誌の立ち読みで知ったニルヴァーナなどのオルタナティブロックに心酔した。カート・コバーンは既に死んでいたが、地方の小さなレコード店で恐る恐る購入したニルヴァーナのライブ盤『フロム・ザ・マディ・バンクス・オブ・ウィシュカー』は今でも私にとっての大切な1枚だ。

音楽にはこの手の話は事欠かない。ニック・ホーンビーの小説『ハイ・フィデリティ』の主人公はレコードマニアであるが、彼の趣味は単なるレコードコレクターに留まらず、レコードを並び替えるのが趣味なのだ。彼は恋人に振られたり、仕事で失敗したりする度に、ABC順、オールタイム・ベスト順などありとあらゆる形にレコード盤を並び替えながら気分をリフレッシュしている。中でも一番マニアック並べ方は、レコードを買った順に並び替えることだ。

このエピソードはさすがにフィクションだろう。そして、ゲームの購入には音楽が持つほどの強烈な経験は私には少ない。しかしそれでも、私たちは音楽やゲームといったコンテンツを単なる中身だけを味わっているのではない。そうではなく、それをどのように知ったか、それをどのように買ったか、それを誰と共に楽しんだかといった様々な経験と共に味わっているのはまぎれもない事実なのだ。

このようにパッケージの購入にはそれ固有な経験があるというのは事実だ。パッケージ販売にこだわる人たちの主張は、ダウンロード販売でこれら固有な体験――言うならば「消費のユーザーエクスペリエンス」――が失われるというものだった。

しかしながら、音楽やゲーム、アプリケーションのダウンロード販売が一定普及した現在から見てみるとどうだろうか?「ダウンロード販売では消費のユーザーエクスペリエンスが失われる」という主張はどれほど妥当であったのだろうか?

ダウンロード販売のユーザーエクスペリエンス


正直言えば、音楽に関しては私は今でも「パッケージ派」の人間だ。大好きなアーティストのアルバムはフィジカルで欲しい。そして結局、ヘヴィー・ローテーションしている音楽はほとんどパッケージで買ったものである。iTMSなどのダウンロード販売のプラットフォームでアルバムを購入した経験もあるが、未だにパッケージの魅力からは離れられない。

しかし、そんな「パッケージ派」の私でもダウンロードで買ったものに固有の体験が無いかと言えば嘘になる。ダウンロードで購入したものは数が限られるが、そのすべてにおいて、どのプラットフォームから購入したか、どういった経緯で購入したかやはりはっきり覚えているのだ。

例えば、ギャラクシー500の『On Fire』。私は彼らの大ファンであり、オリジナル・アルバムはあのライコの緑色のケースですべて揃えていたのだが、なぜか最高傑作である『On Fire』だけなくしてしまったのだ。何百回と聴いたアルバムであるから、脳内でうまく再生することはできる。しかしながら、どうしても聴きたくてしょうがない時に、公共のWifi経由でiTMSから購入にしたのをはっきりと覚えている。

ダウンロードでの購入はこういったプライベートな体験だけに結びついているだけではない。例えば、ネットレーベルを中心として活躍するTOFUBEATSは今ではYUKIのリミックを手がけるなど素晴らしいトラックメイカー/DJとして評価されている。私はマルチネ・レーベルからリリースされた彼の無料の音源を愛聴していたのだが、彼が盟友オノマトペ大臣とアナログ盤を含めた有料ダウンロード販売をすることを聞いて購入を決意した。

先行するPVなどからトラックの出来には満足していたが、このケースでは内容がなんであれ、ファンとして買うぞという気分になっていた。販売はBandcampiTMS、アーティストの直販の三つが選べたが(私はBandcampの日本での普及に力を貸したかったからあえてBandcampから購入)、iTMSではランキングが徐々に上がっていき、遂に日本でのダウンロード数ナンバーワンになった。ネットレーベル中心としたアーティストがiTMSでナンバーワンになることは異例の自体であり、私は自分のことのように喜び、他のファンたちもTwitterなどで購入報告し、中には知り合いにギフトとして送りつけたり、一人で複数の同一データ(!)を購入する猛者すら現れた。完結に言えば、これは一種のお祭りであり、イベントであったのだ。

このようにダウンロード販売にはパッケージ販売に存在した「消費のユーザーエクスペリエンス」がないとはいえない。プライベートな体験にしろ、集団でのお祭り的な消費にしろ、ダウンロードでコンテンツを購入するということはそれ自体、「意味のある体験」になる場合もあるのだ。

ただし、後者の事例は実際には意図的に作られたお祭りであった。つまり、消費者のユーザーエクスペリエンスをTOFUBEATSやレーベル関係者が煽る形でプロデュースしていたと言えるのだ。そして、消費者のユーザーエクスペリエンスは勝手に生まれることもあるかもしれない。だが、今後のダウンロード販売にはこの種の消費のユーザーエクスペリエンスの演出が必要だと思われる。

「ダウンロード販売では消費のユーザーエクスペリエンスが失われる」と論じていた人々は一部では正しかった。クレジットカードの番号を入れて、ダウンロードを終了させる無味乾燥な行為は記憶には残らない。ワンクリックで購入できるAmazonはビジネス書や研究書を買うには便利かもしれないが、音楽やゲームといったエンターテイメント性の強いコンテンツを買うにはドライ過ぎる。消費と購入を演出し、何かしらの意味のある体験を消費者に伝えること。これが今後のダウンロード販売のためにプラットフォーム側が考えるべき重要なポイントである。

実際のところ、現在のゲーム産業で非パッケージ型のビジネスが成功している事例は、この「消費のユーザーエクスペリエンス」をうまく演出しているのだ。以下ではゲームビジネスがいかにこの「消費のユーザーエクスペリエンス」を演出しているか考えてみよう。