2012年12月21日金曜日

クリスマスビデオを作成しました!

少し早いですが、2012年も、皆さまのお力添えをいただき、
多くのローカライズ・クリエイティブ業務に携わらせていただくことができました。

そこで、年末年始の御挨拶も兼ね、
今年も弊社でクリスマスムービーをつくりました。
ぜひご覧ください!




皆様、どうぞ素敵なクリスマスをお過ごしください。
Merry X'mas and a Happy New Year!!

PART 2: ゲーミフィケーション的演出法―Steamとダウンロード販売



現在のところ、ゲームのダウンロード販売のプラットフォームの覇者がSteamにあるのは間違いないだろう。GREEMobageがモバイルゲームにおける覇権的なプラットフォームを築きつつあるが、それはアイテム課金制によるものだ。ダウンロード販売の覇者であるSteamは、GREEMobageとは比較にならないほどのユーザーのロイヤリティを集めており、巨大企業からの買収の噂もあるが、それを断り続けている。

PCゲーマーに対してはまったく説明不要であるSteamも、日本のメディアにおいてはほとんど記事にならない。だがユーザー数の規模自体はGREEMobageとそれほど変わらなくても、販売プラットフォームやSNSの機能の面では到底比較できないほど、先進的なテクノロジーである。その特徴や機能の詳細はここでは触れないが、今回はその販売においてSteamがいかに「消費のユーザーエクスペリエンス」を演出しているかを考えてみよう。

ユーザーから見たSteamの特徴はまず何よりもその価格の安さである。特にPCゲームがこれまで高価であった日本では信じられないぐらいに安い。Steamに登録したユーザーは当初、この価格の安さそれ自体に感銘を受けるだろう。さらに、頻繁に行われるセールは消費欲求に火をつけ、気が付かないうちに「積みゲー」が増えていくだろう。

このような安売りは、長い目で見た場合、コンテンツ自体の魅力を減じる効果があるかもしれない。実際に、ユーザーの支持は別として批判的意見も多い。しかしながら、Steamは確かにゲームのコンテンツとしての価値を低下させているかもしれないが、「ゲームをダウンロードで買う」ということの魅力向上にはつながっている。

SteamSNS機能としてユーザーのコミュニティへの貢献を様々な形で表示可能だ。今年のサマーセールでは、Badgeという形で「サマーセールへのコミットメント」を可視化する試みが行われた。海外のウェブサイトやコミュニティでは浸透しつつあるゲーミフィケーションの手法が、ゲームの販売にまで応用されているというわけだ。これにより、一度も遊ばないゲームを買うようなユーザーはますます増えていくだろう(まあ既にそのようなユーザーは多かったのだけれども)。今やSteamはただの販売プラットフォームではなく、そこでゲームを購入することそれ自体に意味があるものになっている。プレイしていないゲームのライブラリを自慢気に眺める姿は、極端なレコードコレクターと同様な滑稽さがあるかもしれないが、それも一つの文化のあり方であるだろう(もちろん、レコード文化には「希少性」というフィジカルにしか持ち得ない独自の価値があるのだが)。


バンドル売りとインディーゲーム

インディーゲームのファンならば、バンドル売りを知らない人はいないだろう。要するに数タイトルのゲームをダウンロードでまとめて販売する手法だ。このモデルももとはと言えば、Steamが牽引したものだ。Steamは自社タイトルのコンプリートセットやマルチプレイタイトルの複数ライセンスを販売する手法を定着させた。そこに目をつけたをインディーデベロッパーのWolfire GamesJeff Rosen
はインディーゲームを中心としたHumble Bundleを成功させ、結果、Roundup(まとめ記事)が必要になるほど様々なバンドル売りが続出した。

ゲームソフトのバンドル(パック販売)という手法自体は、パッケージ時代からあった古い販売手法でである。ファミコン世代の人々にとっては、売れないソフトを売れるソフトと共に売る「抱き合わせ商法」という汚名が着せられているかもしれない(抱き合わせで買わされたクソゲーも既には良い思い出になっているかもしれないが)。

もちろん、本当に買いたいものに余計なものを付けられて販売されるのは迷惑だが、魅力的なソフトがパックで廉価で購入できるのはうれしい限りだ。また「福袋」という伝統的販売方法があるため、日本人にはバンドル販売が持っている「消費のエクスペリエンス」は想像しやすいだろう。一つ一つは買うにはためらってしまうモノであっても、セットで廉価で提供されるならば、買っても良いという考えは人間の認知機能をハックした巧妙な手法である。モノを二束三文で買う経験には、背徳的な浪費欲求とある種の諦念が入り交じる。それは完全に肯定的なものではない。

しかしながら、浪費することへの後ろめたさをHumble Bundleは上手く帳消しにした。ただ安いのではなく、払う値段は自分で決められるのだ(pay-what-you-want方式)。さらに払ったお金の行き先もユーザーが決定できる。全額デベロッパーに与えることもできれば、チャリティーに協力することもできるのだ。たとえバンドルに入っているゲームの1つや2つがクソゲーであっても(少なくともHumble Bundleではそういうことはなかったが)、寄付をしたと思えば、自らの浪費を嘆くこともない。

またバンドル売りがインディーゲームを中心として人気があるのにも理由があるだろう。実際問題はともかく、バンドルを購入するユーザーはインディーゲームシーンに貢献している気分が味わえる。単なる消費というよりも「参加」しているという感が強いのだ。あたかも同じ会場で多くのバンドがパフォーマンスを行なうロック・フェスティバルのチケットを買ったようなあの感覚。そういった感覚がインディーゲームのバンドル売りを牽引しているのではないだろうか。

デジタル時代のコンテンツ販売のあり方


以上で見てきたダウンロード販売における「消費のエクスペリエンス」は実際に私が経験してきた主観的なものだ。すべての人がそういった経験を持つとは限らないが、少なくとも冒頭で立てた主張――「ダウンロード販売では消費のユーザーエクスペリエンスが失われる」――が部分的には間違っていたことは明らかだろう。ダウンロード販売に慣れていなかった人々は、そこにありうる経験を予測できなかったのだ。

最初に音楽の事例を上げたのは、音楽産業がダウンロード販売に関しては先行していたからだ。見てきたように、ゲームの販売においても多様な試みがなされ、ユーザーもそれを様々な形で楽しんでいる。音楽ではダウンロード販売がいち早く浸透し、さらにサブスクリプションのモデルが登場してきた。しかしながら、ビデオゲームにもオンラインゲームは古くからサブスクリプション型のビジネスモデルであり、アイテム課金というスタイルにも既に蓄積がある。さらに言えば、日本のソーシャルゲームにおける「ガチャ」はある意味では一番強烈な「消費のユーザーエクスペリエンス」の形であったかもしれない。

いずれにせよ、「フィジカル」ではない「データ」を購入することは決して無味乾燥なものではない。コンテンツの内容と同様に、購入や消費に関してもユーザーの情緒は揺さぶられるのである。まだまだパッケージ販売のモデルが強い日本のコンテンツ産業は、ダウンロード販売においてもこれらの「消費のユーザーエクスペリエンス」の演出をプロデュースしていく必要があるだろう。

最後に付け加えると、音楽にあって、ゲームにはまだないものとしてライブ・パフォーマンスを販売するという手法だ。しかしながら、昨今ではゲームジャムという短期間でのコーディングを競う開発手法が流行であるため、ゲーム開発のライブ公演のチケットが普及するのもありえなくはないだろう。アーティストやクリエイターと直接体面してお金を払うというのは、歴史上一番古いコンテンツの販売方法であり、最もエモーショナルなコミュニケーションといって良い。コンテンツ産業がエンターテイメントである以上、人間の情緒を動かす部分には必ずビジネスが成立するのだ。

2012年12月14日金曜日

消費のユーザーエクスペリエンス―ダウンロード販売時代におけるコンテンツの売り方 (part 1)



ダウンロード販売が今よりも一般的ではなく、海外でiTMSなどが登場し始めた頃。ダウンロード販売に関して懐疑的な人々の中には、コンテンツのパッケージ販売からダウンロード販売への以降で失われるものとして「リアル店舗における購入体験」を指摘していたのを覚えている。それらのいくつかは単なる懐古主義の一形態だったようにも思えるが、今あらためてこの問題を考えることは、コンテンツを購入するということが独自の経験――広い意味でのユーザーエクスペリエンス――を創りだすという洞察が得られるだろう。

パッケージからダウンロードへの以降によって失われるものは、物理的なモノにある保存性や財産としての魅力など様々の要素がある。そしてその中には「パッケージをリアル店舗で買う」という独特な体験も含まれているだろう。私も当時はこのような主張に概ね同意を示していたし、一部の大好きな音楽やリスペクトしている同人ゲームなどは今でもリアルな店舗で買うのが好みだ。

事実、ある程度の音楽好きやゲーム好きならマイフェイバリットなCDやレコード、ゲームソフトの購入に関しての思い出を一つや二つ持っているのではないだろうか。もちろん、私にもある。私はファミコンからスーパーファミコンの黄金期に地方で育ったが、家庭の方針から任天堂のファミリーコンピューターは買い与えれなかった。そのかわりに父親は当時のホビーパソコンであるMSXの後期のバージョンを買い与え、私はそれで少しのBASIC言語を学ぶと共に(すぐに放り出したが)、父親にせがんで地方の電機店でゲームソフトを買ってもらった。

中学生からは深夜ラジオから洋楽に関心を持ち、音楽雑誌の立ち読みで知ったニルヴァーナなどのオルタナティブロックに心酔した。カート・コバーンは既に死んでいたが、地方の小さなレコード店で恐る恐る購入したニルヴァーナのライブ盤『フロム・ザ・マディ・バンクス・オブ・ウィシュカー』は今でも私にとっての大切な1枚だ。

音楽にはこの手の話は事欠かない。ニック・ホーンビーの小説『ハイ・フィデリティ』の主人公はレコードマニアであるが、彼の趣味は単なるレコードコレクターに留まらず、レコードを並び替えるのが趣味なのだ。彼は恋人に振られたり、仕事で失敗したりする度に、ABC順、オールタイム・ベスト順などありとあらゆる形にレコード盤を並び替えながら気分をリフレッシュしている。中でも一番マニアック並べ方は、レコードを買った順に並び替えることだ。

このエピソードはさすがにフィクションだろう。そして、ゲームの購入には音楽が持つほどの強烈な経験は私には少ない。しかしそれでも、私たちは音楽やゲームといったコンテンツを単なる中身だけを味わっているのではない。そうではなく、それをどのように知ったか、それをどのように買ったか、それを誰と共に楽しんだかといった様々な経験と共に味わっているのはまぎれもない事実なのだ。

このようにパッケージの購入にはそれ固有な経験があるというのは事実だ。パッケージ販売にこだわる人たちの主張は、ダウンロード販売でこれら固有な体験――言うならば「消費のユーザーエクスペリエンス」――が失われるというものだった。

しかしながら、音楽やゲーム、アプリケーションのダウンロード販売が一定普及した現在から見てみるとどうだろうか?「ダウンロード販売では消費のユーザーエクスペリエンスが失われる」という主張はどれほど妥当であったのだろうか?

ダウンロード販売のユーザーエクスペリエンス


正直言えば、音楽に関しては私は今でも「パッケージ派」の人間だ。大好きなアーティストのアルバムはフィジカルで欲しい。そして結局、ヘヴィー・ローテーションしている音楽はほとんどパッケージで買ったものである。iTMSなどのダウンロード販売のプラットフォームでアルバムを購入した経験もあるが、未だにパッケージの魅力からは離れられない。

しかし、そんな「パッケージ派」の私でもダウンロードで買ったものに固有の体験が無いかと言えば嘘になる。ダウンロードで購入したものは数が限られるが、そのすべてにおいて、どのプラットフォームから購入したか、どういった経緯で購入したかやはりはっきり覚えているのだ。

例えば、ギャラクシー500の『On Fire』。私は彼らの大ファンであり、オリジナル・アルバムはあのライコの緑色のケースですべて揃えていたのだが、なぜか最高傑作である『On Fire』だけなくしてしまったのだ。何百回と聴いたアルバムであるから、脳内でうまく再生することはできる。しかしながら、どうしても聴きたくてしょうがない時に、公共のWifi経由でiTMSから購入にしたのをはっきりと覚えている。

ダウンロードでの購入はこういったプライベートな体験だけに結びついているだけではない。例えば、ネットレーベルを中心として活躍するTOFUBEATSは今ではYUKIのリミックを手がけるなど素晴らしいトラックメイカー/DJとして評価されている。私はマルチネ・レーベルからリリースされた彼の無料の音源を愛聴していたのだが、彼が盟友オノマトペ大臣とアナログ盤を含めた有料ダウンロード販売をすることを聞いて購入を決意した。

先行するPVなどからトラックの出来には満足していたが、このケースでは内容がなんであれ、ファンとして買うぞという気分になっていた。販売はBandcampiTMS、アーティストの直販の三つが選べたが(私はBandcampの日本での普及に力を貸したかったからあえてBandcampから購入)、iTMSではランキングが徐々に上がっていき、遂に日本でのダウンロード数ナンバーワンになった。ネットレーベル中心としたアーティストがiTMSでナンバーワンになることは異例の自体であり、私は自分のことのように喜び、他のファンたちもTwitterなどで購入報告し、中には知り合いにギフトとして送りつけたり、一人で複数の同一データ(!)を購入する猛者すら現れた。完結に言えば、これは一種のお祭りであり、イベントであったのだ。

このようにダウンロード販売にはパッケージ販売に存在した「消費のユーザーエクスペリエンス」がないとはいえない。プライベートな体験にしろ、集団でのお祭り的な消費にしろ、ダウンロードでコンテンツを購入するということはそれ自体、「意味のある体験」になる場合もあるのだ。

ただし、後者の事例は実際には意図的に作られたお祭りであった。つまり、消費者のユーザーエクスペリエンスをTOFUBEATSやレーベル関係者が煽る形でプロデュースしていたと言えるのだ。そして、消費者のユーザーエクスペリエンスは勝手に生まれることもあるかもしれない。だが、今後のダウンロード販売にはこの種の消費のユーザーエクスペリエンスの演出が必要だと思われる。

「ダウンロード販売では消費のユーザーエクスペリエンスが失われる」と論じていた人々は一部では正しかった。クレジットカードの番号を入れて、ダウンロードを終了させる無味乾燥な行為は記憶には残らない。ワンクリックで購入できるAmazonはビジネス書や研究書を買うには便利かもしれないが、音楽やゲームといったエンターテイメント性の強いコンテンツを買うにはドライ過ぎる。消費と購入を演出し、何かしらの意味のある体験を消費者に伝えること。これが今後のダウンロード販売のためにプラットフォーム側が考えるべき重要なポイントである。

実際のところ、現在のゲーム産業で非パッケージ型のビジネスが成功している事例は、この「消費のユーザーエクスペリエンス」をうまく演出しているのだ。以下ではゲームビジネスがいかにこの「消費のユーザーエクスペリエンス」を演出しているか考えてみよう。