2011年11月25日金曜日

ローカライゼーションにおける文化の相違点について


もし翻訳とローカライゼーションの分野において大切な点をひとつ挙げるとしたら、”瓜二つのまったく同じ”国あるいは文化など存在しない、ということだろう。馬鹿げているほどひどく当たり前のことに聞こえるかもしれないが、巷のあちらこちらで見かる、質が決して高いとは言えない多くのゲームのローカライゼーションや映画の字幕などをみていると、かなりの数の翻訳業界に携わる人々に、このことがちゃんと理解されていないのでは?と思わざるをえない。
たとえばヨーロッパ系言語などによくみられるが、類似点を多く持つ二つの言語の間で翻訳を行なう場合、ソース言語の各単語を、辞書で調べたそれに対応するターゲット言語の単語に置き換えてしまえばいいだろうという不届きな誘惑にかられてしまいがちである。多くの人々が見落としてしまいがちなのは、そのような単語の置き換えをしたところで、ターゲット言語からすると自然かつ満足のいくような翻訳には必ずしもならないということだ(事実、そういう場合の方が大半である)。

その理由というのはいたって単純明快で、文法的にあるいは語彙的に多くの点で類似がみられるとしても、言語というのはそれぞれ独自の文化的背景を背負っており、それが言葉の使い方や目的に強い影響を及ぼすからだ。同じ語源的背景をもつことが明白な単語同士でさえ、それぞれの言語においてまったく異なる用法であることも珍しくない。このことを理解していないと、いいかげんでぎこちない翻訳に陥ってしまう危険がある。ターゲット言語での翻訳文を見ただけでソース言語での原稿文を文字どおり再現できてしまうような翻訳では論外といえるかもしれない。

ローカライゼーションにおいて違いを生み出す文化の問題は、なにも単語だけにかぎった話ではない。もし翻訳者が、ターゲットとなる文化や国の人々に受け入れられるよう伝えたいと思うならば、それぞれの文化がもつ価値観や思考体系も翻訳に反映させる必要がある。その最も顕著な例のひとつが、暴力的シーンを含むゲームや映画の倫理審査である。首など身体が切断されたり、全編を通して流血シーンのオンパレード、はたまたただ単に赤い液体を見せつけるようなシーンまで、この類いの表現や描写は、翻訳後の完成品では削除される。

日本のRPGの翻訳などでは一般的な話だが、宗教にまつわる表現や言及というのも、アメリカのように信仰の自由が非常に高い価値をもち、それを軽々しく扱うことを善しとしない文化においては、しばしばゲームをローカライズする際に不適切な表現と見なされる。80年代後半から90年代はじめにかけて作られた多くの日本のRPGの中に登場する十字架的シンボルや、「教会」、「神父」、「神」などといった単純な単語でさえ、英語版からは削除・修正されており、これはつまり子ども向けのゲームにはふさわしくないと判断されたからにほかならない。

逆に最近では、たとえば昨年リリースされたアメリカのRPGFallout 3」の場合、日本版がローカライズされるにあたって修正が施された。というのも、同ゲームに登場するクエストで、原子爆弾を使って村を破壊するというものがあり、これなどは日本人、ひいては日本人ゲーマーにとっても、当然ショックかつ到底受け入れがたいものであるのは言うまでもない。

宗教的あるいは暴力的表現の他にも、人種差別や性的描写、またアルコール・ドラッグ・タバコ愛好といった表現も、ゲームをローカライズするうえで問題となりうる。上記のようなものに関連するテキストはすべて、ローカライズ対象となる国のユーザーのことを慎重に考慮しなければならない。
もちろんゲームに対する過度の審査や規制というのも決して歓迎すべきものではなく、問題になる可能性があると思われるものを何でもかんでも削除すればいいなどというのは建設的でなく問題の解決にはならない。しかしそれでもなお翻訳作業には、ローカライゼーション先の対象国において慎重さを求められる対象かもしれないとみられるものに配慮することが絶対的に求められる。一つの単語ですら異なる二言語ではそれぞれ異なるものを意味するのだから、ゲームに登場するある一つのイメージが、異なる2つの文化においてはまったく異なる感情を呼び起こすものであったとしてもなんら不思議ではないのだから。